父のアルバム【30】第四章 新しい出発

昨年の夏、思わぬところで青木行の話題が出た。

太平洋戦争末期の空襲のことを聞くために、倉敷市に住む三浦勉さんを訪ねた時のことだ。彼は当時、日立造船因島工場(昭和18年3月、大阪鉄工所を日立造船に改称)勤労課の社員であった。

予定した話が終わり雑談に入ったころ、三浦さんから思いがけない質問を受けた。

「私が会社に入ったころ職場に青木さんという女性がいましてね、すごく気の強いやり手の人でしたよ。何か関係がおありですか」

すでにアルバムの新聞記事を読んでいた私は、間髪いれずに答えた。

「はい、私の母です」

行の葬儀に大阪鉄工所時代の縁をみてとれる。

第11代因島工場長(昭和27年8月~34年11月)の赤松茂氏による霊前への献句が行なわれている。同氏は、当時東京に住んでいた。行が東京育ちであることに因んで、東京を詠んでいる。

黒塗りの 桜花に映ゆる 乾門
走り行く 後に落花の お濠ばた
落花に浮く 池のボートの 二人かな

ふたりは大阪鉄工所時代の同僚だったのだろう。戦後も何らかの交流がつづいていたに違いない。

夫の要太郎が神戸の造船所に転任するのは、新聞記事だと「大東亜戦争のはじまるころ」ということだから昭和17年初頭のことだろう。まもなく行も夫を追った。

ところでふたりは、いつまで神戸に住んでいたのだろう。懸命な闘病も空しく要太郎が他界するのは昭和21年3月のことである。夫が死んだのは神戸だったのか、あるいは生まれ故郷の椋浦にもどって最期を迎えたのか。そのあたりが分からない。

もし神戸であったのなら苦労したことだろう。神戸は東京や大阪などと同様に激しい空襲にさらされた。昭和20年の終戦までの8カ月間、128回もの爆撃を受け、9千人もの犠牲者が出たと言われている。

行は昭和17年2月に義父・春太郎を、同20年1月に義母・ミイを失い、そして翌年に夫に旅立たれ、独りになった。明治に生まれ、明治・大正に育った行は、波乱に満ちた戦時の昭和を生き抜き、混乱の戦後に独りで立ち向かうことになったのである。

(青木忠)

大阪鉄工所時代の同僚たちと。中央の和服姿が青木行。

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