「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【11】第三章 呼び戻されて

ふり返ってみるに、われながらよくぞ生まれ故郷に戻ってきたものだと思う。40歳代半ばであった。家族もよくついてきてくれた。

自らの生きがいであった政治活動を捨てた虚脱状態を彷徨っているなかで、そのエネルギーはどこから生まれたのであろうか。やはり私を呼び戻したのは、私を生み、育てた家族の力であろう。

学生時代に、家族と決別し東京に向かった。その行為は両親が私に託した夢を打ち砕いたが、ふたりは決して息子を見捨てはしなかった。

学籍があった八年間を通じて仕送りを絶やしたことはなかった。闘争で逮捕された私が釈放される際に父は上京し、警察署まで迎えにきたことがある。「知られると息子が危ない」という理由で、私の現住所を口外しないよう努めた。

私が継いだ家屋の屋根をふきかえたのも父であった。費用は200万円もかかったという。息子が住むあてのない家屋である。どのような心境であったであろう。

私が家族とともに帰省する六年前に養母は他界した。その訃報を知ったのは私が沖縄に滞在していた最中である。裁判の控訴審の打ち合わせのために弁護士事務所を訪ね歩いていた。立ち寄った沖縄市の事務所に妻からの連絡が届いていた。

那覇空港から大阪伊丹空港に飛び、実家へと急いだ。辛い葬儀であった。「おまえが一番世話になったんじゃけえ」と言われて霊柩車の助手席に座った。出発前にふたりの幼なじみに声を掛けられ、込み上げる気持ちを抑えることができずに人目を憚らず泣いた。

故郷に住み直してしばらくたって、父の放った一言をきっかけに生母である清子を強く意識するようになった。それまでは私にとって母と言えば養母のことであった。清子が亡くなった五歳の時からずっとそうであった。

清子は明治43年2月16日にこの町に生まれた。ふたり娘の長女として恵まれた環境のなかで育った。父を養子に迎えて結婚。その直後、教師である夫の最初の赴任先の向島に数年間居を移したが、夫の地元の小学校からの転勤に伴い隣町に移住する昭和21年まで、生家に住みつづけた。決して強い身体ではなかったが五人の子を産んだ。

父は強い口調で言った。

「おまえが今生きておれるのは、空襲の時にお母さんとお祖母さんが身を挺しておまえを守ってくれたからだ。そのことをよく覚えておけ」

私は絶句した。空襲で私が仮死状態から生還したことは知っていた。しかし、私が死なないですんだのが母と祖母のお陰であるとは初耳だった。

思い立ってひとりで清子の墓に参った帰りのことである。実家のすぐ近くの空間に浮かぶ清子の顔を感じた。

「そうなんだ、自分が帰ってきた町は母さんの町なんだ」と思った。
「母さん帰ってきたよ」

私は呟いてみた。

「よく帰ってきたね」

清子は微笑んだような気がした。

こうして私は、年老いた父親と他界したふたりの母を強く感じながら新しい生活を営み始めたのである。こうした体験は初めてのことである。生母の記憶はほとんどない。大学入学とともに両親から離れた。家族の意味を自覚しない日々であった。

(青木忠)

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