「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【10】第三章 呼び戻されて
大学二年から40歳代のなかごろまで、この道しかないと決めて歩んできた政治運動である。それから身を引いてしばらくの間は虚脱状態を漂うことになるのだが、突然私は、思いがけぬことを口走るようになった。
「生まれ故郷に帰ろうか」
一時的帰省ではない。終の棲家と決めた東京を捨てて故郷に住み直そうと考えるようになったのである。
きっかけは父と妻との電話での会話である。
「お父さんが、田舎に帰ってこないかとしきりに言うのよ」
「ふーん」
この父の誘いは意外であった。まもなく私は、田舎での生活を想像するようになった。
東京で生まれ、埼玉で育った妻は驚いたようだ。夫が東京を離れると言い出すとは、夢にも思っていない。彼女の胸中には、ひとつの人生計画があった。保育園へ通うまでに育ったふたりの子供に夢を描き、小学校から高校までどこの学校にするか、具体的に決めていた。
しかし妻は、私の心境の変化に順応してくれた。東京に住みつづけるか、故郷にもどるか、選択は私の決断に委ねられた。やがて私は妻に告げた。
「やっぱり田舎に帰ろう」
「そうね」
あっさりと決まった。
正直言って私は東京生活に飽きていた。もともと都市での暮らしを望んでいない私である。政治活動があったからこそ、東京生活への違和感に二〇余年も耐えることができたのである。政治活動から引退した以上、ここに留まる一片の理由もなくなっていた。
一度捨てた故郷である。その地に住み直すことができるだろうか。不安は仕事と育児のことである。
下調べのために帰省した。予想通り、仕事を選択する余地などないことが判明した。でもそれはそれでよいと思った。どんな仕事にも就く自信はあった。政治活動引退後、スーパー鮮魚部、とんかつ屋、大手クリーニング店でパートタイマーとして働いた経験もあった。
むしろ心配だったのは三歳と二歳の子供の問題だった。ふたりは都立保育園に通っていたが、Uターン後保育所で預かってもらえるか、市役所を訪ねて問い合わせた。芳しい返答がもどって来なかった。
私は子供の問題で神経質になっていた。明らかに動揺した。新しい保育所に円滑に入所できないのなら、故郷への住み直しを止めようかとさえ思った。
揺り戻しである。グズグズ言い出したのである。
「このまま東京に残ろうか」
しかし次の妻の一言で事態は決まった。
「どうせ田舎に帰るのなら早く帰りましょうよ」
「そうか、そうだね」
一九九一年七月三一日、忘れもしない暑い日だった。私の家族は地元の港に着いた。妻と息子はタクシーで実家に帰った。そのころ私と娘は徒歩で実家につづく坂道を越えようとしていた。
当時娘は、自動車に乗ることを嫌がっていた。タクシーのなかで気分を悪くし嘔吐したのがきっかけである。その日もタクシーとバスのいずれも拒否した。
娘は私と歩いて帰ることをねだった。背中に娘を負い一歩一歩、実家へと歩を進めた。
(青木忠)
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