空襲の子Ⅱ【11】十年間の調査報告 三庄町の真実(3)

 一枚の「空襲写真」が土生の工場ではなく、わが身を襲った三庄町のものであるというまぎれもない事実は、私の内面を激しくえぐった。個人の感慨という面でもそうであり、空襲調査という面ではなおさらそうであった。


 思い余って、私の家と同じ爆弾で家が全壊した方に連絡した。まもなく葉書が届いた。「三庄工場と確認されて改めて写真を見ますと空襲の凄まじさにやり切れない思いです。以前、小用の同級生が『神田に爆弾が落ちたとき、海に魚がいっぱい浮いた』と話していました。写真を見ると、それもうなづけます」と、したためてあった。
 その方は小学校二年生であったという。その映像を見たことで、実際の惨状を目撃した時の想いが蘇ってきたのではないだろうか。それに比べ一歳未満の私は、とにもかくにも憶えていないのだ。現場から掘り起こされて近くの避難先の別宅に抱かれて運びこまれたそうだ。したがってこの写真で、空襲を初めて「目撃」することになった。
 空襲調査という面においては、特殊な心理的要因が作用したのだと思った。「古里の空襲」を調べる活動は当初から、「自分の生まれたところでそんな残酷なことが起きているはずがない。起きていてほしくない」という潜在意識との闘いであった。土生町の工場でそんなに多くの犠牲者が出たということ、さらにその人たちがどのように荼毘に付されたか、いずれも想像を絶することであった。
 それぞれの調査項目については何回にもわたる検証を行い、「疑いのない事実」のみを公表したこの間の経緯からみて、「空襲写真」判定の安易さが際立っている。その写真を初めて見た瞬間、何の迷いもなく「こんなひどい空襲は土生の工場のものだ」と反射的に決めてかかり、検証しないまま発表してしまった。自分が生まれた町の空襲であってほしくないという意識が動いたのだろう。
 「空襲写真」の正しい判定結果をどうしても伝えたい人がいた。私が自主出版した「瀬戸内の太平洋戦争 因島空襲」を購入下さった三次市の方である。お手紙もいただいた。2008年5月26日のことである。
 「お送り下さいました冊子を今朝入手いたしました。早速のお手配ありがとうございました。今日のうちにご送金いたします。
 さて、私こと昭和18(1943)年1月中旬、戦時徴用令をうけ、備北地区三次庄原職業指導所管内の徴用受領者400名と共に2月1日、当時の御調郡土生町大阪鉄工因島造船所(後に日立造船に改称)に入所いたしました。宿所は三庄家老渡の親和寮(原文のママ)で、15日間の教育を了えた後、三庄工場に配属され、この工場で20年7月下旬召集を受けて帰郷するまで約2年間徴用工として勤務した者です。
 その間、19年(原文のママ)3月19日朝の因島空襲また7月28日の空襲では午前中約4時間防空壕に避難したことを記憶しております。
 当時の私の日記と貴書とを両手に、記憶をたぐり乍ら拝読させて頂きます。」
 私は昨秋―防空壕調査を通じて三庄空襲の再調査に着手した―このお手紙を何度も読み直し、その内容の大切さが分かりかけていた。そして12月初旬、「空襲写真」が三庄工場のもとだと判明したことをお伝えしようと電話を差し上げた。ご夫人がお出になり、「主人は11月30日に亡くなりました」と告げられた。
 およそ3年半をかけた私の返信ではあったが、間に合わなかったのだ。一言の会話もないまま終わってしまった。無念である。生後9カ月の体験に基づいて始まった私の空襲調査は、あまりにも非力で、遅々として進まない。それでもって受けとめるには、大きくて、そして重い「古里の戦争」である。
(青木忠)

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