北米紙幣になった日本女性 因島出身キミコオカノムラカミ 激動の時代乗り越えた移民家族【9】

重井の村上家と結婚

キミコ・オカノ=と妹サヨコの里帰りは10年ぶり。大正デモクラシーの影響を少なからず受けていた因島の田熊村民の目に映ったカナダ帰りのモダンガールに話題が集まったようだが「なにしろ昔の話で―」と、言葉少なく当時の生活が紡げない。記録に残るものではオカノ・ムラカミ家は家族の記念写真が多く残っているので移民家族の生活環境を垣間見ることができます。

キミコ・カツヨリの新婚移民カップル
キミコ・カツヨリの新婚移民カップル


キミコが祖母カルの「八十八」の誕生日祝いに里帰りした目的のもう一つは婿探しであったようです。その時の話をジョン・エンドウは次のように述べています。

1925年(大正14年)田熊村の祖母の家にいる間、ある仲人がキミコの見合相手に妻を亡くしたばかりで因島の重井(しげい)村の農家の青年ムラカミ・カツヨリ(村上勝頼)をすすめました。背が高くて好男子とモダンガールの仲はまとまり、なかでもキミコが語るカナダの大地は因島の重井村とは比較にならない大きさで希望と夢がカツヨリの胸のうちをふくらませました。

時代は大正から昭和へと移り変ろうとしていた。1926年キミコとカツヨリは重井村で結婚式をあげたあとキミコとサヨコは5月にカナダに戻り、両親にスポンサーになってもらえるよう頼み込み承諾を得たのちにカツヨリを呼び寄せることになりました。

ジョン・エンドウによると、カツヨリにとっては、カナダへ到着した当初はなにもかもがショッキングであった―と記しています。というのも、彼は裕福な家に生まれ―彼は62代エンペラー(村上天皇)の7番目の息子の末裔にあたる―、使用人に囲まれ労働から解放された自由気ままな生活だった。だが、当時のBC(ブリティッシュコロンビア)はある意味では未開拓の地が多く、彼がそれまで慣れていた快適な生活を送れるような環境は整っていなかった―とカツヨリを紹介しています。

この頃、アメリカの株価大暴落に始まって世界的規模の経済恐慌。数年にわたって世界全体に蔓延している当時の資本主義経済を脅かしたが未開拓地は開墾しただけ農地は広がった。

こうした背景もあってカツヨリはオカノ家との3年契約を5年に延長して働くことになりやがて永住することになります。

(庚午一生)

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