「八重の桜」と本因坊秀策

掲載号 13年04月20日号

前の記事:“続・井伏鱒二と因島【13】その作品に表現された「因島」
次の記事: “米英兵捕虜追悼碑新設 向島町の収容所跡で関係者や住民ら除幕式

 NHK大河ドラマ「八重の桜」は函館から密航を企てた新島七五三太がボストンの地に立ち、十四代徳川将軍家茂公が京都で脚気(かっけ)のため急逝。江戸は地震、大火に襲われ将軍不在で会津藩の都での立場が悪くなって行く背景が描かれた。

 その時代に、9歳で三原城主浅野甲斐守忠敬の庇護のもと江戸へ囲碁研修留学の目的で天保8年11月浅野家家臣寺西右膳に連れられて江戸は本因坊家に預り弟子として送り込まれ幕末を駆け抜け後世碁聖と仰がれる因島出身の本因坊秀策は江戸の様子を故郷尾道の後援者橋本吉兵衛宛に書き送っている。

 嘉永、安政年間といえば国内は尊王攘夷倒幕論など徳川末期の世情は不安。秀策にとっては将軍御前試合である「お城碁」もしばしば中止。19連勝更新中であっただけに残念がっている。

 さらに歴代将軍の中で上様(家茂)はもっとも囲碁を好まれ、安政の大獄の模様をしたためたあと江戸庶民の恒例の神田祭が盛大に行なわれたことにふれ世直しを祈っている。

(村上幹郎)

関連書籍

E