宮崎県の檀上昌也さん 本紙の記事を見て67年ぶりに恩師と交流

掲載号 12年07月07日号

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本紙に宮崎県都城市の檀上昌也さん(78)=写真=から、「せとうちタイムズ6月2日の記事"因島67年目の出会い、爆撃跡を見学した市民"に出ている岡野正吉さんは、終戦直後、私たち三庄国民学校の5年男子組担任の"しょうきっつあん"です」という手紙が届いた。

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このことを本紙が岡野さんに伝えたところ、記憶にあり、67年ぶりに恩師と教え子の交流が始まった。

岡野さんが三庄国民学校(小学校)に赴任したのは昭和20年10月31日。檀上さんは、そのころのことを自らがまとめた「因の島覚え書」―昭和16(1941)年三庄国民学校からの記憶」に記している。

檀上昌也さんは1934年(昭和9)、広島県沼隈郡千年村で生まれ、1941年(昭和16年)の夏、父親の郷里である三庄町に転居。2学期から三庄国民学校に転校した。三庄中学校、土生高校(因島高校)をへて関西大学に進学。宮崎県都城市の南日本酪農協同(株)に就職。1999年(平成11)代表取締役社長に就任。

趣味の囲碁は5段の腕前である。因島出身の伝説的なアマ本因坊の故村上文祥氏は土生高校の2年先輩になる。野球部であったが、同氏に誘われ陸上部にも入部。囲碁の指導も受けた。

文祥氏の弟徳祥さんと同級生。彼が檀上さんの囲碁の師匠だという。

「因の島覚え書」からの抜粋

五年生の途中から初めて担任が男の先生になったのだったが、それが岡野正吉先生で、自分に陸上競技へ目を向けさせてくれた人だった。

先生はスポーツに優れるばかりではなく、バリトンで幅のある歌が素晴らしく然も当時男の先生としては珍しくピアノが弾ける幅の広さで、今までの担任だった女の先生達とはまるで違っていた。

その上、教師としては若い熱血先生というタイプで厳しくはあったが非常に熱心で、然もスマートで顔もよく、何よりも陸上競技万能で、11秒を切ると云われた100mの記録は畏敬の的だった。

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