北米紙幣になった日本女性 因島出身キミコオカノムラカミ 激動の時代乗り越えた移民家族【5】

掲載号 11年02月19日号

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これまでのあらすじ―

1904年(明治37年)日系カナダ人として生まれたキミコは5歳のころからソルト・スプリング島からバンクーバーまでの運河をオカノ家が所有する大きな魚売り漁船を運転。船を埠頭に着岸する時だけ父親のクマノスケに任せるのが習慣になっていました。さらに両親は家計までも管理させキミコの少女時代から独立心を培わせた。

そんな彼女に悲劇が襲ったのが1910年の正月。2歳直前の3女カズエの溺死でした。当時は日系人の埋葬がソルト・スプリング島では禁じられていたため葬儀をバンクーバーでしていた留守の間に一家が所有していた居住ボートとニシン養殖場を焼かれるというショッキングな事件に遭遇しました。このため両親はいったん日本へ引きあげ故郷の広島県因島の田熊村に残したキミコの祖母にあたる未亡人の岡野カルさん(78)方に身を寄せた。以上が前号までのあらまし―。

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Salt Spring Island Archivesより

因島に残された姉妹

日系カナダ人の姉妹は父母の日常会話が日本語だったので因島田熊村の祖母とのコミニュケーションに大きな支障はなかった。しかし、日本国籍がなかったので小学校入学手続きに手間どったが村長のはからいでキミコは田熊小学校1年生に在籍することになった。間もなく父クマノスケはカナダに戻り、母リヨは4人目の娘ミヨコを出産、少し大きくなると夫がいるカナダへ戻った。

キミコは両親に置き去りにされたと思い傷つきながらも妹の世話をせざるを得なくなった。一方、両親としては反日感情が高まるカナダの情勢を心配してキミコとサヨコを日本へ残す選択をしたのだが幼い姉妹にはそれを理解するには無理な年齢でした。むしろ「両親に捨てられた」という思いが少女の心を傷つけ二人の人生に深い傷あとを残す結果になったようです。

ともあれ、キミコの学校成績は優秀でした。一般教科も音楽、体育、友だちの関係や村人たちの間でも彼女の社交的な天性は大人の間でも人気者だった。一般的には幼い姉妹が肩を寄せ合いながら生きる不憫な同情を集める境遇だが、その心配はなかった。半農半漁の村の生活はカナダよりも気候温暖で祖母を助け妹の面倒を見ながらの生活でしたが「学校を卒業すると両親のもとへ帰りたい」という願いはつのるばかりでした。

この時代の経験がキミコの一生を通じ「誰かの面倒見る」という人生をたどることになり自分の子どもには極度の過保護になるという性格になったようです。

(庚午一生)

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