因島にて… つかみかけた確信【45】

掲載号 10年10月30日号

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ある決心(3)

 終戦記念日前日の8月14日、太平洋戦争末期の空襲の遺族や被害者が、差別なき戦後補償を求めた救済法の制定めざす、「全国空襲被害者連絡協議会」(略称・全国空襲連)を結成した。会場の東京都台東区民会館には、東京、大阪、名古屋、青森、前橋、静岡、岡山、佐世保などから300人が集まった。

 私たちは案内をもらいながら参加できなかった。しかし、強い励ましと影響を受けた。同じ境遇の多くの人たちが、戦後史を懸命に生きてきたのだ、と思った。空襲被害者の全国組織誕生にいたる過程は苦難に満ちたものであり、胸をうった。

 1972年秋、名古屋空襲で被爆し左目を失明した杉山千佐子さんがひとりで、「全国戦災障害者連絡会」(全傷連)を立ち上げた。戦後、旧軍人・軍属やその遺族への年金・恩給の支給がなされるなか、空襲被害者は放置されたままであった。街頭署名や国会議員への陳情を通じて「戦時災害援護法案」の成立をはかったが、かなわなかった。立ちはだかったのは、国の「戦争損害受忍論」であった。

 国は1952年のサンフランシスコ講和条約発効以降、旧軍人・軍属とその遺族に対し、国家補償という観点から総額約50兆円の恩給や年金を支給してきた。しかし民間の空襲被害者には、「受忍論」を理由にいっさいの援護処置がとられなかった。その法律的根拠は最高裁判所大法廷判決(1968年11月27日)である。

 ―戦争中から戦後占領時代にかけての国の存亡にかかわる非常事態においては、国民すべてが、多かれ少なかれ、その生命・身体・財産の犠牲を堪え忍ぶべく余儀なくされたのであって、これらの犠牲は、いずれも、戦争犠牲または戦争損害として、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであり、右の在外資産の補償への充当による損害のごときも、一種の戦争損害として、これに対する補償は、憲法の全く予想しないところ…。

 1980年、旧厚生大臣の諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」は、最高裁判例に依拠した戦争損害受忍論をもって、民間人の戦争被害に対する国の法的な賠償責任が無いとした。

 原爆被爆者については国家補償という観点ではないが、「特別の犠牲」であるとして、放射線による健康被害に限った援護制度がある。

 沖縄県においては、旧軍人・軍属や遺族のための恩給や戦傷病者戦没者遺族等援護法を援用し、沖縄戦で被害にあった一部住民に恩給・年給が支給されている。県下の空襲被害者には援護処置はとられていない。

 東京大空襲の被災者と遺族は2007年、国の謝罪と賠償を求めて集団で提訴した。東京地裁は昨年十二月に棄却したが、その判決のなかで「戦争被害者救済は立法を通じて解決すべきだ」とした。これをうけて原告団は控訴審で争うとともに、救済立法実現のための取り組みを始めた。そして、一昨年12月に提訴された大阪空襲訴訟原告団が合流。こうして初めての全国組織結成にむけて拍車がかかることになった。

 政府は一貫して、「戦後処理問題は解決済み」としてきた。しかし今年6月、第二次大戦後にシベリアなどに抑留され、強制労働につかされた人たちに特別給付金を支給する特別措置法が議員立法で成立した。

 朝日新聞は記事のなかで、全国空襲連の共同代表であり、東京大空襲訴訟弁護団長の中山武敏弁護士の発言を紹介している。

 ―第二次世界大戦で同様に空襲被害を受けた欧州各国は、被害者補償制度を整備しており、被害を我慢せよという日本は特異。差別なき戦後補償を実現しなければ本当の民主主義国とは言えない。

(青木忠)

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