「橋本君輝昭に捧ぐ」司馬遼太郎の弔辞【2】

掲載号 10年06月19日号

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学徒出陣の背景

 註 司馬遼太郎と因島の橋本輝明との関係を「君と知り合ったのは37年の昔なりき」とあるように、前述の弔辞が読まれたのは昭和55年4月26日のこと。逆算すれば昭和18年の学徒動員の年になる。傘寿を越えた人たちは「あぁ、あの明治神宮外苑の…」と、角帽と学生服に三八鋭をかついだ閲兵行進をする学徒出陣の光景を思い出し、地方の人はラジオニュースや映画ニュースの記憶として残っているだろう。

 司馬遼太郎は明治38年秋の日露戦争講和を境に日本はすっかり変ってしまった、と後に語っています。この時の日比谷暴動は日露戦争継続を叫んだ大衆の熱狂の果てが大東亜共栄圏を掲げて戦火をひろげた太平洋戦争。そして敗戦。ここで日本は一回滅びることになるのです。その断末摩の助走の一幕が「一億総決起(玉砕)」を声高らかに神宮の森にこだました学徒出陣ともいえるでしょう。

 この時代、男子は20歳になると徴兵検査が国の制度であり、学生は徴兵猶予の恩典がありました。希望大学を落ちたから浪人するとしても徴用工か兵役が待っている。司馬さんはとりあえず大阪外語(現外大)モンゴル語科に籍を置いた。十人ほどのクラスで予習復習をしていなければ当てられるのでうんざりしていた。「いっそ兵隊にいった方がましだ」と絶望的になったころもあったという。

 新聞記者時代のある日のこと、戦前戦中のころを話し合っていたところ「ナンバースクールは無理だったので旧制大阪高校、弘前高校を受験、二年連続失敗。ほんとうは早稲田か、どこかの支那文学科に入って好きなことをやっていたかったが結局はそのままに終ってしまった」と聞かされたことがる。

 「そうであれば、文化系学徒の動員(出陣)を聞いた時、ショックではなかったのでは―」と聞くと、「『しめたっ』といったら父から『おまえ兵隊が好きか』とバカにされたようにいわれた。兵隊は大きらいだが、それよりも学校の方がもっといやだった」と、黒いロイド眼鏡の下から天井をあおいだ司馬さんの表情が淋しげに見えた。

 ともあれ、弔辞によると「寒き日(昭和18年12月)兵庫県加古川の戦車第十九連隊に入営。学生服を脱ぎ故郷に送った思い出を共にす」と書いている。

 その夜、隣り合わせたのが因島に両親がいた橋本輝昭(輝明が正しいが弔辞には輝昭と認めてある)と同室で寝台は隣り同志。戦場で言う「寝台戦友」となった。のちに言う「橋本君は僕の命の恩人だ」と。それというのが「おれは、どんくさい。橋本君は体も頑強で初年兵教育の基礎訓練では上司の目を盗んで助けてくれた」という同期の桜であったというわけ。

(庚午一生)

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