時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【14】秀甫の運命(その3)

掲載号 08年10月04日号

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因島出身の神童―

 秀甫の兄弟子に秀策がいた。文政12年(1825)備後国外之浦(現広島県尾道市)生まれ。秀甫より9歳年長である。秀甫が江戸・上野車坂下の本因坊道場の隣で生まれた前年の天保8年に、瀬戸内海の因島から出府(地方から都に出る)して十二世本因坊丈和に入門を許された。丈和は秀策の碁を見て「是れ正に百五十年来の碁豪にして、我門風の之より大に揚らん」と喜んだ、と「座隠談叢(囲碁の史書)」は書いている。「百五十年来」とは、前聖といわれた本因坊四世道策(島根県太田市仁摩町出身)以来という意味である。

 因島の秀策記念館に展示してある免状は、11歳で初段、1三歳二段、1四歳三段、15歳四段とスピード昇段している。兄弟子の秀和(静岡県・小下田村)が十四世本因坊に就任した翌年の嘉永元年、六段に進み、本因坊跡目(次期本因坊として幕府に届ける)となった。

 跡目として将軍が観戦する御城碁に出場できるようになった秀策は、翌嘉永2年から13年間、御城碁十九連勝無敗という前人未到の成績を残した。しかし、文久2年(1862)当時、江戸で大流行したコロリ(ポックリ病)にかかり病死。兄弟子から義父になっていた本因坊秀和が秀策の父にあてた手紙には「暴潟病(はげしく食べ物を吐き出す)」と書かれている。下痢もひどかったようだ。

 秀和の手紙は続く。「貴所御嘆きを推察仕り候に付けても日々落涙致し候。殊に天性才知勝れ、芸は諸人の知る処、碁所(ごどころ=碁界の総取締り役)にも相成る人と上様初め門人共も申し候処、中道に分かれ、只夢の心地に御座候」とあり、秀和の深い悲しみが伝わってくる。

[トピック]

 9月27日朝、尾道市因島の本因坊秀策囲碁記念館完成の祝賀式の会場入口。NPO法人、市民劇団尾道てごう座田島美鈴理事長と本因坊秀策を演ずる村上博郁さんが11月9日の因島公演「秀策・虎次郎ものがたり」のパンフレットを配布PR。折りよく日本棋院副理事長大竹英雄名誉碁聖の目を引いた。恐る恐る秀策役の村上君=写真=が盤上に碁石を運ぶ所作の指導をお願いしたところ快くOK。復元された秀策生家での指導に感激一入(ひとしお)。本番には最高の演技が期待できそうだ。

(庚午一生)

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