原爆とうこの世恐ろしく死にし吾子夢の中にも顔を見せざる

掲載号 08年08月23日号

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大田 静子

 大田さんはあまりしゃべらない方で、どちらかと言うと話し上手よりも聞き上手の方であった。短歌グループの中で何十年となく、身近にお付き合いをしていたが、広島での被爆体験の詳しいことは知らなかった。又話をする気持にならなかったのかもしれない。

 被爆の当日は、広島に何かの所用があって8月の5日6日と泊まりがけで行っていたのである。その時、どこでどのように被爆し、逃げ惑ったかは記憶に無いと言われていた。当時は原爆のことをピカドンと言っていたが、もっと省略して「ピカ」と呼称していた。このピカの熱線に焦げただれた人群と一緒に走りに走り続けたのである。2歳半になる「素美」という幼児をかき抱いて阿鼻叫喚のなかをまさに地獄絵の中を走っていたと言われていた。いつか人群から離れ、ふと我に返り胸に抱いている吾が子を見たときもう呼吸をしていなかったと言われた。それから先はどう荼毘(だび)に付したかは聞くことが出来なかった。

 2歳半の幼児にはなんとこの世とは恐ろしいものだと思ったに違いない、だから私の夢の中には只の一度も顔を見せない、一度くらいは見せてよ、何十年と経っても忘れてはいませんと言っているのである。

 8月4日のNHK番組で被爆者・空白の10年「偏見と差別」を見た。被爆者は早死する、遺伝するなど言われ結婚するにもひた隠しにしていた頃であった。

 この偏見と差別から徐々に解放されるのは、南太平洋のビキニで行われたアメリカの水爆実験の時の被爆漁船第五福竜丸事件以後、原水爆禁止運動が盛んになり、昭和30年8月6日広島において第1回の大会が開催された。あの時に歌われた「ああ・ゆるすまじ原爆を」の歌が憶い出される。

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