空襲の子【68】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え めざすべき人

掲載号 07年12月22日号

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 巻幡敏夫の足跡を追いながら、彼がめざした究極の目標は、信用組合の結成にあったのではないかと思った。昭和27年~43年初代理事長、43年~46年理事、46年から人生最後まで顧問を務めた。

 巻幡は生前、因島信用組合が広島県信用組合に合併されるという動きを知り、関係者に「自分が生きているうちは、合併しなくてもやっていける」と語り、制動をかけた。やがて死後3年経った平成4年、合併によって因島信用組合は消滅した。

 信用組合の設立の精神と巻幡敏夫の生きざまが、重なって見えてならない。次の事実を知ったとき、巻幡の歩んだ波瀾万丈の人生がふと浮かんできた。世界で最初にドイツ農村部に信用組合を設立したライファイゼンは、アレクサンドル・デュマの小説「三銃士」やそれを出典にしてラグビーの世界でも使われている「一人は万人のために、万人は一人のために」の言葉を信用組合に引用している。 

 信用組合が誕生した19世紀中ごろのドイツでは、資本主義経済が浸透し、生産設備を持つ資本家とそこで働く労働者という階級分化が生まれ、都市部では労働者や古くからの商工業者が、農村部では農民が窮乏していき、貧富の差が拡大していった。銀行は富裕層である資本家のみを顧客にしていたため、庶民は相手にされず、生活資金などを「高利貸し」に頼らざるを得ず、一層窮乏する状況になった。

 こうした時代背景も、巻幡が因島信用組合設立を決心した当時の島嶼部の置かれた経済状況に酷似していたのではなかろうか。第二次大戦の復興はほぼ終えたというものの、中小企業の倒産があいつぐ状態であった。「この因島には中小企業は必要なんだ」と巻幡はいつも語っていたという。大企業はともかく、誰がこの中小企業の惨状を救済するのだ。熱き血がたぎったに違いない。

 巻幡は信用組合設立にあたり公職追放処分の時と同様に、家人にむかって「この家と全財産はないものと思ってくれ」と言った。それがどれほどの覚悟なのか筆者の想像を超えるものがある。信用組合設立のためには自ら進んで私財を捧げようというのだ。

 巻幡は薦められて2度にわたって大きな選挙に立候補し、いずれも敗北している。昭和28年の初の因島市長選、昭和43年にあった義弟の巻幡進死去に伴う県議補欠選挙である。政治家の道には興味を持ちきれなかったのかも知れない。

 夫を絶えず支えつづけた妻ミツノさんは昭和50年、死去した。享年73歳であった。巻幡邸は当時、時の首相をはじめ政治家、官僚、経済人、文化人らの客人から、地元の人たちなどがひっきりなしに訪れ、あるときには宿泊し、交流していった。まるでそれは、「迎賓館」とも言えるものであった。夫人は茶も華も免許をもち、プロから教えをこうた料理でもてなした。多くの人が相談もまず夫人にもちかけた。夫が旅立ったのは、十数年たった平成元年3月3日のことである。享年91歳。

 今でも巻幡敏夫の名で学校4校への寄付がつづけられている。そのひとつが滋賀県にある、知能に重い障害をもつ人たちの施設「止揚学園」である。いかにも巻幡敏夫らしい。ここにわれわれが、めざすべき人がいる。

巻幡敏夫氏
写真は、時代の風を全身で受けとめ生きた晩年の巻幡敏夫氏。

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