空襲の子【62】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 友人・池田勇人(上)

掲載号 07年11月10日号

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 第58~60代内閣総理大臣・池田勇人(1899~1965)=写真=と巻幡敏夫は生涯を通じての友人であった。旧制忠海中学校で机を並べて以来、将来東京で会おうと、誓い合う仲となった。しかし、その二人の夢は叶わなかった。東京と因島、進む道は大きくふたつに別れた。

池田勇人

 池田勇人は佐藤栄作とともに吉田学校の最優等生であった。吉田茂の側近としてサンフランシスコ講和、日米関係の構築、戦後日本経済の発展に指導的役割を発揮し、首相就任後は「所得倍増計画」を打ち上げ、高度経済成長の推進役を果たした。

 1899年(明治32)広島県吉名村(現・竹原市)に生まれた。旧制忠海中、旧制第五高を経て京都帝国大学法学部に進んだ。卒業後、大蔵省に入省。しかし1929年(昭和4年)宇都宮税務署長時代に落葉状天疱瘡という難病を発症して大蔵省を休職。

 1934年(昭和9年)に復職。1949年(昭和24年)衆院選に出馬し初当選。第3次吉田内閣で大蔵大臣に抜擢。1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約調印のために全権委員として、吉田茂に同行した。

 旧制忠海中を卒業した巻幡敏夫は、進学のために京都に行った。だが、土生特定郵便局長である父広太郎のあとを継ぐために、急きょ因島に帰らざるをえなかった。将来、ともに中央で活躍しようという池田の誘いも断るしかなかった。中央への道を諦め、島を「城」にした新しい歩みが始まった。そして島内はおろか県下においても不動の地位を築きあげることになった。

 公職追放は、二人の戦後の進路をさらに引き裂いてしまった。2年間の闘病生活と約5年間のブランクが戦争という時代の渦から池田を救った。巻幡への追放処分の報をわがことのように悲しみ、同情を寄せた。

 「ぼくはあの病気にかかったことで、巻幡君と同じ処分を受けずにすんだ」と嘆いた。GHQに呼びつけられて上京する巻幡に池田が「マッカーサーに会ったか」と尋ねると、「ウン、会ったよ」と返事が返ってくるのだった。講和会議に出席した池田の巻幡へのアメリカ土産は、当時はとてもめずらしいナイロンのYシャツだった。

 池田は吉田学校の優等生であった。公職追放で幣原喜重郎内閣は総辞職に追い込まれ、次期総理と目されていた鳩山一郎、石橋湛山らが追放されるなかで吉田茂は、戦後政治の主導権を手中にしつつあった。吉田の側近として池田も、着実に基盤を固め始めていた。
池田は公職追放によって進んだ政治的大再編の波に乗り、政治の前面に躍り出た。他方、公職追放が巻幡の社会的地位と活躍の場を奪った。それでも友情は途切れることはなかった。
池田は思ったことをそのままズバリ言う傾向があった。衆議院予算委員会(昭和25年12月7日)における大蔵大臣としての答弁が、「貧乏人は麦を食え」と発言したと短絡化されて報道されたことなどが有名である。それを聞いた巻幡は、「あいつは昔からいつも一言多いんだ」と思わずつぶやいたという。

 また池田は訪ねてくる縁の人間に、「巻幡は自分が持ってないところを持っている」といつも語って聞かせていたという。

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