空襲の子【61】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 家族それぞれの苦悩

掲載号 07年11月03日号

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 二女恵美子さんに単刀直入にお尋ねした。「お父さんは、本当に軍国主義者でしたか。わたしには、どうしてもそうとは思えないのですが」との問いに、「そうではありません」と、明快な答が返ってきた。

 筆者は、巻幡敏夫との面識は一切ない。しかし、家人の出身大学を見れば、その人柄や志向についてある程度の想像がつく。妻ミツノは広島女学院出身で英語に堪能。長女は京都女子専門学校(現在の京都女子大)卒、次女恵美子は広島女学院専門部(現在の広島女学院大)卒である。

 長男の展男は海軍兵学校に憧れて、県立広島第一中学校に進学した。とはいうものの本人の弁によれば、軟派系のところがあって、ディック・ミネや淡谷のり子のブルースを歌っているのが見つかって、ぶん殴られたりしたこともあった、という。土生郵便局長になることに選択の余地がなかった父は、子どもたちの進路は自由にさせた。

 恵美子の話はさらにつづく。父は、どうしても自分が受けなければならない場合以外は、他人に譲るような性格であった。大政翼賛会の会長も、町全体に推挙され、指名されれば受けざるをえなかったのではないか、と語る。

 こうした父であったからこそ、子どもたちには、父が公職追放されたことを十分に受け止めることができなかった。妻ミツノは夫が翼賛会の会長を務めていたとき、婦人会の会長になり夫の活動を支えた。だからどうなろうが、妻には覚悟はできていた。

 苦悩が深刻だったのは長男の展男であろう。父への追放処分が大学受験と重なった。昭和22年3月広島一中卒―25年山口高商卒―同年25年4月大阪大学法経学部入学―昭和28年大阪大学法経学部卒と、進んだが大きな障壁が待ち受けていた。まず学徒動員、被爆と闘病による学業の遅れは著しかった。それを乗り越えての阪大進学だった。

 ところが予想もしない冷酷な現実を思い知らされるときがやってきた。大学受験の面接のさい、面接官が「君の父親は首つりだね」と言い放った。公職追放のことである。その大学側の無神経な言動は、受験生には、不合格の通告に等しいものであった。

 因島の自宅に戻った展男は思い余って、父や姉の前で面接試験であったことをそのまま話し、「受験はだめになった」と声を荒げた。父敏夫はただ静かに聞いていたという。

 早苗と恵美子の姉妹にとって、父への追放処分は結婚適齢期に重なった。結婚の勧めがある度に、父の職業についての質問が最も辛かったという。「そう尋ねられて、無職ですとは答えられませんでした」と二女恵美子は胸中を語った。早苗は医師山本一登、恵美子は日本海事協会主任技師天本藤明のもとに嫁いだ。

 父は家人にいっさい弁明をしなかった。ひたすら耐える日々であった。自宅での取調べにもいつもと変わらぬ平静さで応対した。GHQからの呼び出しにたいしても、賠償指定解除の交渉のときと同様、土生町消防団長北野久吉を付き添いにして、上京した。そして馴染みの熱海のホテルに北野を待たせ、一人で東京に向かった。


巻幡家
公職追放下の巻幡家の家族。左側から4人目が父敏夫である。

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