空襲の子【57】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 日本人意識の解体

掲載号 07年10月06日号

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 占領期において進められたのは、「軍国主義の排除」の名の下での日本人意識の解体であった。追放の嵐が吹き荒れるなかで、文化面における統制も強められた。例えば映画においてはアメリカ映画がどんどん公開される一方、時代劇が解禁になるのは、サンフランシスコ平和条約が調印された1951(昭和26)年になってからだった。

無法松の一生

 日本人に親しまれつづけている映画「無法松の一生」(稲垣浩監督、伊丹万作脚本、坂東妻三郎主演)=写真=は、1943(昭和18)年に公開された。日本人の心情の原点にふれるような感動作である。しかしこの映画は戦前と戦後、二度にわたる検閲で約18分間分もカットされている。公開前に日本の内務省はいくつもの場面を大幅にカットした。その理由は、「無学粗暴な市井無頼の人間が、大日本帝国陸軍軍人の将校の未亡人に、恋慕の情を抱くなどとは、もってのほかである」と、いうものだったと言われている。

 この名作の受難はつづくのである。戦後の検閲により、もう一度大幅にカットされた。日本の内務省によるものでなく、連合軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)の検閲である。映画評論家の白井佳夫氏の調査によればそれは約8分間と見られている。

 どの場面が検閲されているのか。まず未亡人の一人息子の少年が加わる、小倉中学の生徒と師範学校生徒の喧嘩のシーンである。「敵は幾万ありとても」と「四百余州を挙(こぞ)る十万余騎の敵」という歌詞のある「敵は幾万」と「元寇」という二つの軍歌を互いに歌い合う場面がカットされている。

 さらに無残なカットシーンは次の場面である。節分の豆まきをやった後で、無法松と未亡人が座敷で、少年が明日の学芸会で歌うことになっている、明治時代の小学校唱歌「青葉の笛」の、独唱の練習をするのを聞く、という名場面である。それが、いつしか学校講堂の学芸会のステージに転換していく、という設定の情感の盛り上がるシーンである。

 唱歌「青葉の笛」は、「平家物語」の「敦盛(あつもり)と忠度(ただのり)」に材をとった、源氏と平家が戦い殺し合う悲哀を歌い上げた歌である。詩は次の通りである。

【1】一の谷のいくさ破れ/討たれし平家の公達あわれ/あかつき寒き須磨の嵐に/聞こえしはこれか青葉の笛

【2】更くる夜半に門を敲(たた)き/わが師に託せし言の葉哀れ/今はの際まで持ちし箙(えびら)に/残れるは「花や今宵」の歌

 こうした場面は何故カットされねばならなかったのか。検閲官は稲垣監督に、「アメリカ軍占領によって民主化された日本の人びとに、封建時代を賛美するような場面を見せたり、封建的な時代の歌を聞かせたりするようなシーンを、見せてはならない」と言ったという。

 戦前戦後を通じてカットされたシーンの完全復元パフォーマンス活動をつづける白井佳夫氏は、「軍国主義の名のもとでおこなわれたものも、日本民主化の名のもとでおこなわれたものも、まったく同じように愚かなものである」と結論付けている。

参考文献、白井佳夫「現代に甦る『無法松の一生』」(「小説新潮」1993年11月号)。

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