空襲の子【9】因島空襲と青春群像 土生で何が起きたか(上)その日に戻りたい

掲載号 06年10月21日号

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青木 忠

 「その日にもどりたい」、それが痛切なわたしの願いとなった。わたしがもしも、昭和年のころ赤子でなくてせめて少年だったらわたしは何を感じ、何をしていただろうか。軍国少年になっていただろうか。その時代を生きていた人に無性に会いたかった。そのころの文章、写真、歌などすべてに浸りたかった。

 まず、当時歳、日立造船因島工場の職工であった故西島和夫さんの文章を一字一字読み直すことから始めてみることにした。西島さんには直接お会いしお話をお聞きしたことがあり、その文章も何度も読ませていただいた。すべて分っているつもりであったが、その最後のページで読むのが止まってしまった。こんなことが書かれていたのかと思わず目を疑った。

 ―因島病院の中にはもう廊下もいっぱい、外へも死体がはみ出すような状況でした。

 土生の善行寺で社葬が行なわれたわけですが、友の棺をかついで火葬場まで行きました。私は背が低いですから、死体の処理も十分できていなかったのか、血が棺桶からしたたり落ちるわけです。名残を惜しむとはこのことですかね、私の白いズボンの上に友の血がポタポタと付着したのを今でも鮮明に覚えています。そしてその火葬のことですが、何分にも遺体が多いので土生の公園へ長崎から上がって行く途中の青影寮だったと思う。会社の社員が寮の先の坂左奥を掘り下げて薪と油をかけて荼毘にふしたわけです。

 亡骸を荼毘にふした場所は間もなく分った。大寶寺の副住職の山本寛雄さんに説明していただいた。つづいて、日立造船因島工場の社葬責任者だった三浦勉さんが、倉敷市にお住まいであることも判明した。

 これらの事実について、取材をお願いしていたNHK広島放送局記者の宮脇麻樹さんに知らせた。記者と最初に会話を交わしたのは、今年2月。尾道市と報道関係者との新年会の会場であった。本格的に取材が始まったのは6月に入ってからだった。

 記者の取材方針は昨年の番組とは異なっていた。焦点は日立造船因島工場への空襲だった。とりわけ犠牲者の数と犠牲者がどのように弔われたかということに徹底してこだわっているように思えた。また、わたしが実現をめざしている慰霊祭についてどこまで真剣なのか、テストされているようにも感じた。

 取材を受ける以上、わたしが知っているすべてをさらけ出す覚悟はできていた。堰をきったように話し始めた。約1カ月の取材期間中に何十時間語っただろうか。この瞬間にかけたのだった。

 しかし、映像による取材をうけるのはわたしだけでない。他の方々にも協力をお願いすることになる。大丈夫だろうか。それは杞憂だった。心のこもった61年目の証言をしていただいた。

 このNHK取材を通してわたしは変わった。変わらざるをえなかった。米軍の空襲で多くの方がなくなった因島工場のど真ん中に、ようやく立つことができたのだ。もはやあとには引けない、前に進むだけだ。

 (つづく)

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因島空襲に飛来したチャンスボートF4U

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