空襲の子【8】因島空襲と青春群像 呉・福山・因島 瀬戸内は戦場だった

掲載号 06年10月14日号

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青木 忠

 戦後60年を迎えた昨年は、わたしにふたつの点で転機となった。ひとつは、前号で述べたように、空襲犠牲者のご遺族に初めてお会いすることができたことである。ふたつ目は、因島空襲の基本的な性格についての疑問がとけたことである。「呉方面に向かう米戦闘機に対空放射しなければ因島は攻撃されることはなかった」という通説ははたして真実であろうか。

 わたしたちは戦後、まさかそんなに悲惨な空襲があったとも知らず、瀬戸内海の静けさと美しさを誇りとして、その恵まれた自然のなかで育まれ、青春を謳歌してきたのだった。なにも知ろうともせず、知らされもしなかった。そのように成長してきたわたしたちにとって「ヒロシマ」は例外であった。

 しかし事実は違った。瀬戸内海は戦場だったのだ。それはすぐに分った。呉は昭和20年、米軍に連続的に徹底的に狙われた。犠牲者は、市民2071人、軍人・工員1629人とも言われている。福山市は8月8日、焼夷弾攻撃で354人の犠牲者がでたと言われている。

 他県も瀬戸内海に沿った主要都市が狙われた。岡山県は岡山市、玉野市。山口県は、下関市、宇部市、山口市、周南市、防府市、下松市、岩国市、小野田市、光市。愛媛県は、松山市、今治市、宇和島市、八幡浜市、新居浜市。香川県は高松市。

 こうした一連の米軍の空襲が、明確な作戦計画のもとに行なわれたことは明白だった。では因島空襲はどうだったのか。複数の人が語るように、守備隊が対空放射さえしなければ米軍戦闘機は因島の上空を素通りしたのだろうか。

 こうした疑問を解くかぎとなる資料に間もなく出会うことになった。NHK広島放送局は昨年の7月14日に因島空襲を特集した番組のなかで、米軍資料にもとづき「日立造船因島工場は米軍の攻撃目標とされていた」ことを示した。

 その米軍資料である「第2次世界大戦におけるアメリカ海軍の公式年表」の「1945年7月28日(土)」太平洋のページに、因島ドックヤード(造船所)との記述が3カ所にあり、さらには、「日本軍貨物船ひろた丸は因島造船所で死傷者を出す」との記録も掲載されている。また前回述べたように、米軍の因島空襲は米軍により撮影されていた。撮影されながら空襲が敢行されていた。

 日立造船因島工場は明確な作戦的な意図をもってねらわれた。呉に次ぐ重要な戦略的な造船所として攻撃をうけたものと断言できるのではないか。だとするならば、因島空襲への過小評価は実態調査活動に致命的な失敗をもたらすだろう。

 わたしは以前、三庄町の民家への空襲について「造船所からそれた流れ玉があたった」ぐらいに理解していた。ところが今年の7月に空襲体験者から、「流れ玉じゃないのよ、民家をわざとねらったのよ」と教えられ、唸ってしまった。

 昭和20年の日立造船因島工場の内部でなにがあったのか。覚悟して最大のテーマに迫っていく時がついにきたのだ。

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因島空襲に飛来した米軍艦載機グラマン

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