空襲の子Ⅱ【31】十年間の調査報告 因島空襲と行政(2)

 「因島市」の編者の青木茂氏は、1898年(明治31)3月、因島椋浦町で生まれた。敗戦当時、47歳くらいである。まさしく激動の近現代を生きた一人である。


 にもかかわらず彼は、因島市史における近現代史の記述を避けた。とりわけ因島史上最大の事件ともいうべき因島空襲の事実を隠蔽しようとした。それは何故か。彼も言う、日本占領軍であるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)最高司令官マッカーサーに屈し、歴史記述において自主規制したからである。
 ここで因島の名誉のために記さねばならないことは、こうした事例が因島に限ったことではなく、日本政府や全国の自治体、あらゆる言論機関において、ありふれたことであったということである。
 1952年(昭和27)4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、連合軍の日本占領は終わった。それから16年を経て「因島市史」は発行された。それだけの期間を経ても遠慮しなければならないほど、マッカーサーの影は大きいものだろうか。
 この問題を戦後史という観点で見てみよう。獨協大学法科大学院の右崎正博教授は、「占領軍による言論政策と言論の自由」という論文で、次のように指摘している。
―今日、独占的マス・メディアの存在のもとで、言論の自由の抑制は、国家権力の直接的介入という形態をとるよりも、むしろ、マス・メディア内部における「自主規制」という形態をとるのが一般的になっている。そのような形態での自由の抑制は、思想統制の現代的特色となっているばかりでなく、言論の自由の憲法的保障を空洞化させる大きな要因となっている。
 つづいて教授は、その点について占領軍の言論政策との関係で論じている。
―戦後我が国における、言論の自由抑制の、市民社会への内在化=「自主規制」の成立に、もっとも大きな影響を与えたのは、占領軍の言論政策であったように思われる。この観点からすれば、次の三つが検討すべき重要な課題として提出されるであろう。第一には、プレス・コードによる検閲。第二には、いわゆる「編集権」の成立と経営者側によるその排他的掌握。そして第三に、占領軍が示唆し経営者側がそれに呼応したレッド・パージ、である。
 ここでは、1945年9月19日に発表された、「日本に与うる新聞遵則」(プレス・コード)について考えたい。この前文には、「新聞のニュース、社説、広告はもちろんこのほか日本で印刷されるあらゆる刊行物に適用される」と明記されていた。内容は10カ条からなっており、連合国への批判を次のように禁止していた。
【3】連合国に関し虚偽又は破壊的批判をしてはならぬ。
【4】連合国占領軍に対し破壊的な批判を加え、又は占領軍に対し不信若くは怨恨を招来するような事項を掲載してはならぬ。
【5】連合国部隊の動静に関しては、公式に発表されない限り発表又は論議してはならぬ。
 プレス・コードによる検閲は、占領軍とその政策、また占領軍の指令で動いた日本政府に対する批判的な報道を封じることになった。プレス・コードへの違反への罰則は極めて重く、発行禁止、業務停止、軍事裁判(軍法会議)による重労働が課せられた。
 新聞各社は震えあがり、「自主規制」に奔走することになった。発行禁止、業務停止などによる経済的打撃を回避するためである。こうして占領軍当局の意図通りに事態は進展していったのである。
(青木忠)

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