碁打ち探訪今昔四方山話【41】秀策改名のエピソード(5)本因坊家跡目の下心

登り竜の勢い

9歳で江戸・本因坊家へ入門。11歳で初段。13歳二段格、10か月後三段(13歳夏)昇進。天保14年、秀策15歳になってからは兄弟子や先輩との対局が多くなっていることが棋譜として残されている。この時代、秀策に胸を貸した棋士たちをあげてみると、剃髪をいやがってお城碁に出仕しなかっただて男、太田雄蔵、第十二世井上因碩となった葛野忠左衛門、実力ナンバーワンといわれた本因坊家の跡目秀和らがいた。

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このうち葛野忠左衛門は本因坊丈和の長子で文政3年江戸生まれ。幼名は梅太郎、またの名を道和ともいった。秀和と同年齢で父本因坊丈和の門に入り、初段から五段まで同時に昇段した。しかし、不幸にも眼病にかかったが治療のかいあって全快後、葛野忠左衛門と改めたという。秀策とは天保14年15歳四段、忠左衛門24歳六段のとき二十番碁を打っている。その後、坊門の名家を継ぎ水谷順策と名乗ったが、第十一世井上因碩(幻庵)に懇望され井上家に入り第十二世因碩となった。

しかし、精神分裂症となり完全に快癒せず安政3年37歳で病没した。秀策と手直り碁を試みた頃は彼の最も充実した時代であったといえる。この二十番碁は天保14年から15年にわたって打ち継がれており、水谷順策と改名された天保15年5月からはまた改めて次の二十番碁が始まっている。

現在残されている棋譜(本因坊秀策全集)によると、秀策の7勝6敗―持碁の成績となっている。勝負の推移は初めの頃は秀策が打ち込まれ、一時は"先"に戻る寸前まで追い込まれながら後半盛り返して挽回。若さと勢いがあったことがうかがえる。こうした精進がみとめられ天保14年10月6日に秀策は四段を免許された。

ときにこのたびの免許状=写真=には

其許囲碁幼年なりと雖も執心、所作宜し候故去年七月三段格免許の処弥修行惰りなく手段益々精しく候、依って今般同僚会議を遂げ、向後上手に対し先及二子之手合四段を免許し畢はぬ、猶以って勉励逸群の心掛け肝要と為す可き者也、仍って免状件の如し。
天保十四年葵卯年十月六日
本因坊丈策印
安田秀策老

とあり、特に秀策の修業が並々でなく昇段も矢つぎ早であったことを記している。

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