ふるさとの史跡をたずねて【112】土生神社(因島中庄町奥鹿穴)

土生神社(因島中庄町奥鹿穴)

金蓮寺の史料館前から北を見ると小高い丘があり、因島水軍城が建っている。さらにその北側が因島中庄町鹿穴(ししあな)である。因島重井町の字別全図にも獅子穴が載っているから、中庄村、重井村の村境が定まる以前からあった名前だと思われる。鹿がいたとしても、ライオンが因島にいたという話は聞かないから、ここは単純に考えてイノシシのことではないかと思っておこう。

それでは今をときめくイノシシが、そんなに昔からいたのかと思われるかもしれない。いた時代もあっただろうが、途中に断絶があった、のだと思う。国史跡の能島城跡の対岸の大島には猪之塚があるし、江戸時代の因島で猟師鉄砲が使われていたから、イノシシを撃ったのだろう。ただし、畑に餌になる農作物は少なく、今ほど繁殖はしなかったと思う。

さて、中庄町のシシアナから重井町のシシアナへ抜ける道は、かつては険しい峠道であったが、今では農道として整備されており、車でも通れる。その峠に差し掛かる途中に土生神社がある。

中庄町の干拓の歴史では、土生新開が最初だと言われるから、この神社の下の辺りのことかと思う。深くえぐられた谷が自然のものか人工的なものかは知らないが、その土が海を狭くし、陸地を広げるのに役立ったことは確かだろう。

土生新開は天正元年(1573)に完成する。後に土生村に移住し、大土生宮地家清左衛門の祖となった完左衛門の努力による。第二家老稲井氏から宮地家へ養子に行く。その遺児に土生村の稲井屋敷を与えて、稲井氏が因島を去ったのが慶長五年(1600)であった。だから、土生新開と呼ぶのはよいとして、それを天明元年(1781)創建の土生神社の近くとするのは私の憶測である。

土生新開が農地として開発されたとすると、宮地氏が一部の人たちだとしても、海賊業から足を洗う時期としては、少し早いように思うのは私だけであろうか。

(写真・文 柏原林造)

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