再び「井伏鱒二と因島」 162通の青年期の手紙 発見に寄せた作品の紹介

福山市出身の作家井伏鱒二(1898~1993)が友人に宛てた青年期の手紙と葉書計162通が発見された。このことは、10月14日、新聞各紙で一斉に報道された。

この中には、早稲田大学高等予科を休学中の井伏が寄宿先の因島三庄町千守から発信したものも含まれている。

同所に暮らしたのは1921年(大正10)秋から翌年の春頃までである。こうした体験をもとに井伏は少なくとも35編以上の因島ゆかりの作品を残した。

造船業の勃興

井伏がやってくる直前の大正10年6月、三庄村は町制に移行した。因島について次のような当時の記述がある。

―住民は農、工、商、漁其他に分つも多くは農を業とし、傍ら商工を兼営せるもの尠からず、島の南部即ち土生町、田熊、三庄村に在りては、土生町に大阪鐡工所因島工場、三庄村に備後船渠株式會社の大造船工場あり、其他各所に大小の造船工業勃興せるを以て、遠近此地に集り來る職工の數は、萬餘に達し、土着の村民も亦多くは、其職に従事せるを以て南部地方は工業化せると云ふも、過言にあらず、従って之に伴ふ、商業も亦可なり殷盛を極めり。(田丸實太郎「因島案内」大正8年3月10日)

ところで備後船渠は大正8年6月に大阪鉄工所三庄工場になった。

工場の場面描く

井伏の作品に三庄の造船所の場面を描いた二つの作品がある。「岡の上のスケッチ」(昭和6年)と「因ノ島―瀬戸内海の旅―」(昭和7年)である。

「ドックには修繕中の汽船があった。岡のてっぺんからそれが真下に見えた。甲板では、ペンキ職工が弁当屋の娘をからかってゐた。ペンキ職工は、出前の箱をブリッジの高いところへ結びつけて、娘がブリッジに登るのを見物しようとしたのである。…」(「岡の上のスケッチ」)。同様の描写が、「因ノ島―瀬戸内海の旅―」にもある。

造船所はなくなったが、それを下に見下せる岡は昔のままである。きっと井伏は散歩の最中にその岡に登り、造船所の風景を眺めたのである。

大正初期の大阪鉄工所三庄工場。左前方に段々畑が見える。そこから造船所が眺められる。

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