時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【20】幕末のお城碁と公方様(その1)

 秀策が幼い頃から終生パトロン的な存在であった尾道の豪商、加登灰屋橋本吉兵衛竹下(ちっか)や故郷因島外浦の父桑原輪三(わぞう)に宛てた手紙の中で公方様(くぼうさま=徳川将軍)のことにふれたものが二通残っています。その文面と、NHK大河ドラマ「篤姫」の囲碁場面を紡ぎあわせ幕末にタイムスリップしたことがしばしばありました。


 薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)、大久保利通、西郷隆盛ら上級下級武士をとわず囲碁を好んでいます。だが、当時の慎みを重んじる上級武士の家では、年ごろの男女が二人だけで打ち解ける密会などは許されなかったはずです。それをドラマでは、於一(篤姫)と肝付尚五郎(小松帯刀)の二人きりで心おきなく語り合うシーンに囲碁を設定。「篤姫が嫌な女に見えないように」というネライは脚本(田渕久美子)の面白いアイデアでした。
 熱い想いを秘めたまま篤姫と小松帯刀の別れとなる対局が終ったあと、篤姫のセリフに「碁石には序列がないが、打ち手の思惑で生き方も局面も変わる。だが、女は自ら生き方を変えることができない。だから碁石がいとおしい」といった告白シーンは、自分の好きな人を諦めてお殿様のいいつけを聞かなければならない切なさ、ジレンマを囲碁の特性にからめて見事に表現していると感心した人は多いと思います。
 囲碁は、徳川家康の時代から幕府に庇護され、江戸時代には下級武士から町人にいたるまで教養の一つとして親しまれてきました。そして、毎年十一月十七日には御城碁といってプロ棋士の代表が選ばれ公方様ご出座による対局が開かれます。だから、将軍が囲碁を好きかどうかで棋界の発展の度合いが違ったと言われています。
 秀策の時代は、どうだったのでしょう。天才少年安田栄斎(のちの秀策)が9歳で江戸・上野車坂下の本因坊家道場に入った。その頃の本因坊家は、第十二世本因坊、丈和の代。天保二年六月名人位就位とともに幕府から管賜御所を許された棋士で、四世本因坊道策につぐ本因坊中興の主として称されていました。秀策が、名門の道場に弟子入りしたころの世は天下泰平でした。
 ところが、黒船来航で泰平の夢は破られ、嘉永年間に日本と和親条約を半ば強制的に締結した諸外国は引き続いて通商条約を迫ってきました。安政年間の頃になると外国艦船の来訪もひんぱんになり攻勢を強めてくる一方で、国内の勤王倒幕の動きも表面化して世情は騒然。恒例のお城碁も、正常に行われることが少なくなり、お城碁の模範対局である「お好み碁」は行なわれない年、下打ちのみに終る年、お城碁中止の年さえもあり、秀策がいかに憂慮していたかは、彼の手紙から読みとることができます。
(庚午一生)

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