「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【2】第一章 もうひとつの甲子園

私は中学校、高校を通じて野球に熱中し、甲子園球場に強い憧れを持った。だが、当然のことではあるが、全国大会出場など叶うはずもなかった。

今思うのだ。別の意味で甲子園は私にとって青春の球場になったようだ。私は甲子園で、沖縄を初めて強く意識するようになったのである。

当時の沖縄はアメリカの統治下にあった。

太平洋戦争で沖縄は本土防衛の決戦場になった。日本で唯一の地上戦が行われ、20万人余の犠牲者が出た。そのおよそ半数が住民である。

サンフランシスコ講和条約が1952年(昭和27)に発効することで日本は主権を回復したが、沖縄は日本から分離され、県民の意思に反してアメリカの支配下に置かれることになった。

私がこの事実に覚醒したのは、1958年(昭和33)に沖縄の首里高校が夏の甲子園に出場したことによる。その年は、第40回記念大会ということで沖縄代表を加えて47校が参加し、大会が開催された。

首里高校は善戦空しく初戦で敗退した。しかし沖縄球児の甲子園はこれで終らなかった。首里高校の選手が球場の土をビニールに入れ、持ち帰った。敗退したチームが行うお馴染みのシーンである。
ところが首里高校の選手たちを待ち受けていたのは冷酷な現実であった。彼らの「甲子園の土」は那覇港で廃棄処分にされた。それが「外国の土」であるとされ、その持込はアメリカの検疫法に違反していると言うのだ。

中学校2年13歳の夏、私は首里高校の甲子園の一部始終を注視していた。社会への関心もさほど高くなく、読書熱があるわけでもない。ただただ野球に熱中さえしていれば何の不満のない少年であった。そうだったからかも知れない。沖縄の球児たちの姿はまぶしく映り、私の心を静かに揺さぶった。
しかし、この体験を誰かに打ち明けようとはしなかった。その記憶は、ただ内面に沈み込んでいくだけだった。高校生になって硬式野球に夢中になったが、沖縄のことを意識することはなかった。野球と受験勉強の日々のなかで沖縄のことはどこかに行ってしまったようだ。

大学に入学した私は、想定外のコースを選択した。学生運動に専念し、1970年日米安保条約改定反対に的を絞り、運動の高揚をめざした。だが、それでもなお私は沖縄を忘れたままだった。

ベトナム戦争を語ることはあっても沖縄を語ることをしなかった。核武装に危機感を持つことはあっても、沖縄にある核兵器に関心を示さなかった。米軍基地についても同様である。本土にある基地の撤去を叫んでも、基地だらけの沖縄の現実から目を背けていた。第二次大戦の悲惨さを嘆くことがあっても、沖縄戦にはまったく無知だったのである。

そもそも、サンフランシスコ講和条約が発効した日である4月28日を沖縄の人たちが「屈辱の日」と称してしていることなど、夢想さえしなかった。

今でも鮮やかに思い出す。1968年11月7日東京。私は大勢の仲間とともに、政府中枢直下の日比谷公園から東京駅八重洲口を舞台にデモ行進を行い、沖縄闘争に決起した。24歳の時である。

夏から数カ月に渡り、真剣な議論がつづけられた。その日、私の心身にあの甲子園が舞い降りたようだった。

(青木忠)

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