「初めて語る戦争体験」矢野一夫さん(因島三庄町)

今年8月21日、元因島市助役の矢野一夫さんが95歳で亡くなられた。

喪主の矢野智信さんは葬儀で「野球少年だった父は、戦時下昭和18年旧制福山誠之館中学5年生の時、家族の反対を押し切り予科練に志願し、松山航空隊へ入隊いたしました。飛行訓練を受けている最中終戦となり、その後因島に帰り現在に至りました。父の原点はこの戦争の体験にあると思います」と挨拶。

平成17(2005)年7月23日矢野さんは、因島三庄町にある高齢者介護施設しまなみ苑で開催された「三庄空襲を想い語る会」に出席、「戦後60年にあたって」の演目で講演を行なった(当時81歳)。

葬儀後、遺族より、生前矢野さんが大事に保存していた講演の原稿を提供を受けた。本紙では、全文を掲載する。

戦争を体験し語れる人が年々少なくなるとき、矢野さんが残された講演の記録は、受け継いでいく大切さと困難さを教えている。「初めて語る戦争体験」は、今の私たちが知ることができる最後の話ではないだろうか。

「初めて語る戦争体験」

矢野一夫(因島三庄町)

矢野一夫さん

はじめに

私は、先ほど紹介いただきました七区のそこに住んでいる矢野でございます。

私は当時の神田(じんでん)空襲を直接体験したのではありませんが、先ほど話がありました秋月柳(あきづきりゅう)56歳は私の伯母で、この空襲で亡くなったのです。が、終戦後帰って来て死亡の状況を聞いたのでございます。

私は直接戦争に参加し、あちこちで空襲の恐ろしさとその悲惨さを身をもって体験しておりますが、そのような体験の話をするのは今日が初めてです。

昭和16年12月に太平洋戦争が勃発し、最初はあちこちで大きな戦果をあげ旗色は良かったのですが、昭和18年のミッドウェイ海戦後急速に戦況が悪くなり、大変な状況となり、学徒動員などにより若者は戦闘要員としてかり出されていたのです。

反対を押し切り航空隊入隊

福山誠之館中学校

私は当時福山誠之館中学校の5年生(17歳)で卒業間近でしたが、親や家族等の反対を押し切って昭和18年の夏頃海軍飛行予科練習生に志願し、同年12月1日に松山海軍航空隊に入隊し、そこで9ヶ月間の厳しい訓練を受け、昭和19年9月、当時呉の海軍工廠のドックに戦艦大和を見学に行き、その後すぐ広島の宇品港からスマトラ(インドネシア)の第302海軍航空隊に向けて出港しました。

大阪商船の貨客船「さんとす丸」(7266トン)という輸送船で、艦長は関大佐で、当時フィリピンへ向けて出陣する「神雷特別攻撃隊員」も一緒だったと思います。19隻の輸送船団であったと思います。

さんとす丸

さんとす丸

香港~台湾~山形へ

しかし、当時のフィリピン海峡は制空権も制海権も米国に握られ大変危険な状況で、日本からの輸送船は次々に撃沈され、無事に行き着くことは出来ないようでした。

関艦長は250名の若者をみすみす死なすわけにはゆかないということで、機動部隊の空襲を避け急遽香港へ避難したのです。その時は単独航行であったと思います。

香港も毎日のように空襲を受けながら40日位滞在せざるを得なかったのです。

しかしいつまでも香港で無為に過ごすわけには行かず、昭和19年の末頃、私たち(約250名)だけを乗せて「さんとす丸」は護衛なしで台湾の高雄港へ入港、台南州の虎尾(こび)海軍航空隊へ配属され正月を迎えました。

虎尾航空隊で連日飛行機の操縦訓練をやっておりましたが、空襲は烈しくなるし施設や飛行機は破壊され訓練不可能となり、昭和20年3月山形の神町(じんまち)海軍航空基地へ転属となり、そこで内地防衛の特攻隊編成となり、私達の部隊から50名の隊員が選ばれたのです。

幸か不幸か私も隊員の一員となり、東京霞ヶ浦基地に転属になり、そこで精神訓話や特攻訓練を受けていましたが、空襲が激しくなりまた山形へ帰りました。5月末でした。

山形で終戦

そして8月6日に広島に新型爆弾が落とされ大変な状況であることを聞きましたが、それが原子爆弾であるとは知らされませんでした。8月15日神町基地で終戦を迎えたわけです。

しかし私の任務の性格もあり、文通も禁止されておりましたので、私が生きているやら死んだのやら家族は全くわからなかったようです。

終戦になったので部隊を解散し直ぐに家に帰ればよかったのですが、神町基地は徹底抗戦の異様な状況で、血気盛んな若者が九州や厚木方面から集まり始め、基地に居座り続けていたわけですが、米国も困ったのでしょう。当時終戦処理内閣の総理大臣東久邇宮殿下が8月末、グラマンやロッキードといった戦闘機に護衛され神町基地へ飛来。全員集合をかけ、「天皇の命である降参しろ」とのことで泣きながら軍艦旗を下したのを思い出します。

8月15日以降はやけになり、毎日毎晩やけ酒(ブドウ酒が多かった)を飲んだりどんちゃん騒ぎもやりましたが、誰も止めるものはいなかったような気がしました。その時「クレオパトラ」という外国映画を見たような思いもあります。

尾道駅前桟橋にたどり着く

8月末、当時2,000円の大金を我々に給付して早く家へ帰れということでしたが、帰る方法は指示が無いのです。結局、我々中国、四国、九州出身者は貨物列車の貨物に荷物と一緒に分乗し、神町駅から青森県の余目(あまるめ)を経て秋田へ廻り、北陸線を通り大津まで3日かかったと思います。

帰る途中、特攻隊員は京都の進駐軍にとらえられるという噂が広まり、戦友のうちから京都へ偵察隊を送り込み様子を探ったのを思い出します。そういう状況でないことがわかり、大津から京都へ出て乗り換え、8月31日の晩遅く尾道駅に着き駅前桟橋の待合所で一夜を明かしました。

因島へ、三庄へ

同期の伊賀君も一緒でした。三庄南郵便局の局長をしていた小用(こよう)の奥屋の伊賀君です。

朝一番の船を待っている時、男の人が「兵隊さん、あんた等どこへ帰るんか」と聞かれ「因島じゃー」「因島のどこか」「三庄じゃー」「三庄のどこや」「小用じゃー」「えつ、小用へ!」とその人はびっくりしたように「あんた小用の方は空襲で家はありゃせんどー」というのでこっちもびっくり。三庄が空襲に遭ったことはその時初めて知ったのです。

家はあるのか、家の者はどうなったのか知るすべもなく、そのことを気にしながら通い船(伝馬船)に乗り、小用に上陸しました。

家に着いたときびっくりしました。家の者もびっくりしたようです。「お前生きとったのか」と祖父の最初の言葉を思い出します。

小用桟橋付近

伯母の死を知る

私がびっくりしたのは、玄関に入ったところに梱包した荷物が沢山置いてあったのです。

私は祖父母に育てられ、その跡を継いだのですが、祖母は「お前が死んで帰らんから因島に居ても仕方がないので、ところの四国の新居浜へ帰ろう」と思っていたそうで、丁度その準備をしている最中に帰ったのです。

二階へ上がってびっくりしました。二階の天井は傾いたままでした。二階の裏から外を見ると、備後クラブの西側のほうにあった大きな家が一軒もないのです

その時誰だったかわかりませんが、家の者から秋月柳伯母が空襲で死んだことを聞かされたのです。

先程の紙芝居にありましたように、当時の伯母は南郵便局の北斜め前で、平屋建ての小さな家でウドン屋を営んでいました。その家の床下を掘りそこへ地下壕を造り、空襲のとき神戸から疎開して因島へ帰っていた私の母親(39歳)と一緒に布団をかぶって避難していたところ、爆弾で破壊され、吹き上げられた大きな四角の家の敷石が、ウドン屋の屋根と床を破り地下壕へ落下し、伯母を直撃し、即死の状態であったようです。

祖母や母親等から、その時の恐ろしさや悲惨な状況を聞かされ大変無念な思いをしたものです。この神田空襲で20~30人が死んだと聞かされましたが、実際には伯母を含めて17~18人であったようです。

霞ヶ浦のこと

私も香港や台湾、東京霞ヶ浦基地等で恐ろしく悲惨な空襲は体験しております。

霞ヶ浦基地に居たとき、B29爆撃機の大編隊による大空襲も体験しました。昭和20年4月の日曜日であったと思います。キューンという不気味な耳をつんざく様な音を出しながら爆弾が雨のように落とされ、基地はもとよりその周辺もおおきな被害を受けました。私は防空壕へ退避し助かりましたが。

基地の近くに土浦海軍航空隊があり、これは予科練の訓練校のようなもので練習生が多くいたのですが、丁度日曜日で訓練は休み、練習生の家族等が多く面会に来て居りまして、兵舎と兵舎の間の大きな防空壕に避難していたのですが、大型爆弾が壕を直撃し多くの練習生や家族等が亡くなったのです。200人位が犠牲になったと思います。

私達は実施部隊で内地防衛の特攻訓練を受けていたのです。「桜花(おうか)」という爆弾のような楕円形の物に羽根をつけたもので、「人間爆弾」と呼ばれていたと思います。これを操縦する訓練で、グライダーの滑空訓練のようなものです。

これを重爆撃機の胴体に吊るし敵機動部隊の上空へ運び、特攻隊員を乗せて落とすわけで、一機一艦体当たりの必中必死の酷いものです。この「桜花」は操縦桿だけでエンジンもありません。上へは飛べず、ただ下へ下へ向かうだけの無茶な作戦だったのです。

一式陸攻から切り離される桜花

私達は空襲後被害を受けた土浦航空隊へ行き、200体位の遺体を基地の飛行場へ戸板で運び合同荼毘に付したことを思い出します。残念な惨めな話ですが、ガソリンをかけて火葬したと思います。

このような悲惨な体験をしておりますが、こんな話をするのは初めてです。冗談交じりに特攻訓練の話はしますがね。

私達は洗脳されていたのです。「百獣の王の虎は死して立派な皮を残す。我々日本男児はお国の為に死んでも、大和魂は永遠で滅することなく護国の神となる」と特攻訓練中の精神訓話を受けながら、それを信じて生きてきた時代を感慨深く振り返ると、残念でなりません。

戦争は勝っても負けても悲惨なもので、この世の地獄であることを肝に銘じながら、今日此の場へ出て参りました。

これからは皆さんと共に、永遠に平和な世をつくりあげることを誓い合いながら、これからの老後を生きていきたいと思っております。ありがとうございました。

(写真㊦は2005年7月23日しまなみ苑「三庄空襲を想い語る会」当日の様子)

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