碁打ち探訪今昔四方山話【40】秀策改名のエピソード(4)本因坊家跡目の下心

本因坊家の思惑

本因坊家にとって「百五十年来の碁豪」と秀策少年の天賦の才に惚れ込んだ碁家総元締の官賜碁所第十二世本因坊丈和。九段で名人。実力は俗に十三段ともいわれ、前聖は四世本因坊道策そして後聖が丈和に冠せられている。その丈和は、天保10年11月17日恒例のお城碁をつとめたあと29日に三原藩浅野候から預り弟子秀策に初段を免許した。桒原虎次郎改め安田栄斎13歳のときである。

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写真は丈和が著した「國技観光」


本因坊丈和は、この免許状を出した翌日の11月30日に碁所を引退して隠居を決意、第十一世本因坊元丈の子、丈策(当時六段)を第十三世本因坊に定め跡目として当時同家の門弟の中で最も優れた棋力の持主だった土屋秀和(当時七段)を当主に推せん。このことを幕府に申し出て自分は本所相生町の邸に隠居しました。丈和53歳でした。

そして4年後には桒原秀策改め十四世本因坊跡目へと出世街道を駆け昇るわけですが、武士ならば15歳で元服の歳頃。日本の囲碁界はすでに秀策が無視できない存在になっていたことも見逃せない。

本因坊家としては、この頃から預り弟子である秀策に囲碁の修行の外に学問をすすめ書道を学ばせている。これらは本因坊家の将来に果すべき人材として期待を寄せられていたことが想像されます。本因坊丈和は「隠坐談叢」によると「短躯肥大眉太く頬豊かにして従容迫らざれども爛々たる眼光犯すべからざる風があった」と書き残されています。

その棋風については「豪快にして緻密、石をセリ上げてゆく時の迫力は、まさにちから山を抜くの概があり、歴代本因坊の中でも一級品にランクされている」と述べられています。そして同時に囲碁の大衆化にも努め月の4、10、16、20、26の5日間は特に「会日」と名付けて、車坂の本因坊家の道場を江戸の町民に一般開放、本因坊家所属棋士も出席して囲碁の指導をしたと伝えられます。

このように棋力、政治的手腕をかねた丈和に秀策が入門第一歩の時代に遇い、指導をうけたことは彼の人間形成に目に見えない大きな影響を受けただろうと想像されます。

(庚午一生)

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