因島文学散歩【1】生名渡し(因島土生町)

生名渡し(因島土生町)

島々の灯ともし頃をゆるやかに生名(いくな)渡しの船は出づらし 吉井勇

昭和11年、吉井勇(1886~1960)は岩城島から因島へ入った。岩城島では歌人でもあった豪商・三浦氏の客となって、若山牧水を回顧する歌などを詠んでいた。

旅に出ると日常的に見ている家具だの書物などから切り離され、ふと心の中の隙間が顔を出す。そして、その表情で異郷の景色を見る。それを文字にするには、やはり17文字より31文字の方が適している。いわゆる旅情歌ができる。

島々というから土生と生名島の灯が見えたのだろう。今ほど家がなかったから、場所によっては弓削島や佐島なども見えたかもしれない。

家々の灯が少しずつ点(とも)っていく。今と違って蛍光灯もネオンもなく、淡い黄色一色の弱々しい灯。まだ完全には暗くなってなくて、島かげがシルエットのように見える。

船の離着岸は緩慢なものだが、敢えてそう記すところに、ゆるやかな時間の進行を願っているようにも感じられる。

遠くの船のエンジン音がすぐ近くのように聞こえる。

土生水道を越えて渡海船が対岸に着く頃には、退社時の喧騒も波音の彼方に去り、一日の労働を無事終えた安堵と安寧が、次第に濃くなる闇に包まれていく…。

昭和19年発行の歌集『旅塵』(桜井書店)の、因島のところには土生での3首、白滝山での6首が載っている。土生での他の2首を記す。

因島に船近づけば聴こえ来る鉄板を打つ夕ひびきかも

船工場のある島なれば夕潮に異国の船も船がかりせり

当時の生名渡し桟橋は、フェリーの時代ではないから土生港のあたりだった。現在は岩城行きのフェリー乗り場の護岸に、見事な黒御影の歌碑が建っている。

今の感覚では生名フェリーは生名渡しであるから、そこの写真を載せる。

架橋後の港湾施設の変貌は激しかった。そんななかで生名フェリーの切符売場は、古い桟橋の待合室の雰囲気をよく伝えている貴重な場所である。もしここにジュークボックスを置き、「赤いハンカチ」のレコードでもかけたら、それは遠い日の尾道駅前桟橋の待合室になる。あの頃は渡海船とは呼ばず巡航船と呼んでいたが…。

(文・写真 因島文学散歩の会・柏原林造)

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