碁打ち探訪今昔四方山話【25】安政4年四度目最後の帰郷 中四国行脚と因縁の出会い

「碁聖本因坊秀策」の著者で尾道市の樫本清人氏は水谷縫次について、次のように書き残しておられます。

秀策と伴の亀三郎が後の方円社の偉才として名声のあった水谷縫次の発見は、「浜満屋(秀策生家)」でのことであった。水谷縫次は瀬戸内海に浮ぶ伊予大島椋名(今治市)の医師の家に生れた。性来棋をよくし7歳の時、今治城主松平壱岐守勝吉公の前で近侍と対局したと伝えられ、近辺に敵するものが居なかったという。

因島外浦(いんのしまとのうら)の浜満屋に父と共に訪れたのは13歳のときであった。秀策に対し四子と三子を布いて三局の指導をうけたが全勝。その力量を認められ上京をすすめられたが病弱と父の反対に会い入門を断った。

しかし、明治12年、33歳のとき方円社(日本棋院前身)の創立に際し初めて上京参加。その活躍が期待されたが明治18年、39歳で没した。方円社は七段を贈った。対局中奇癖のあった人としても伝えられている―とさらりとふれているだけ。

石谷廣二と囲碁十傑

今回の帰郷で特筆されるのが秀策は安芸国(広島)能美島生れの棋士、石谷廣二(いしがいこうじ=秀策死後改め廣策と名乗る)に「囲碁十傑」だった石谷は秀策より10余年歳上。因島の浜満屋を訪れ、歳下の秀策六段と対局したあとのこと、普の王積新が作った古来著名な格言を書き残している。

秀策にとって、博打好きで金銭的にルーズな石谷は好きでないタイプだったが。対局に際しての戒めとして座右銘とし、囲碁の信条を書き与えるという有名な話が語り継がれています。

石谷は大喜び、秀策の没後35年を経て明治30年秀策の打ち碁百局を集録して刊行した有名な「敲玉余韻」の巻頭にこれを載せ、半生を秀策顕彰に捧げたといわれています。その功績に感謝した第十四世本因坊秀和が策の一字を石谷に与え五段を免許されている。

写真は秀策は石谷廣二に書き与えた秀策自筆の「囲碁十傑」。

(庚午一生)

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