因島にて… つかみかけた確信【55】

時代遺跡の島(6)
因島捕虜収容所(4) 捕虜たちは、造船所で働かされることについてどのように感じていたのだろうか。著者は二カ所で、それを「歓迎」する趣旨の表現を使っている。

―この日(職員)Nが私たちにうなり声と共に伝えてくれたことに、私は喜びを禁じえなかった。それは、私たちが近いうちに造船所へ働きに出るようになるということだった。

―一九四二年十二月八日火曜日、この日は日本が東南アジアへ攻撃を開始した日から丸一年目に当っていたが、私たちはこの日から造船所へ作業に行くことを伝達された。このことは私たちにとって、むしろ救いであった。

 造船所従業員としての新生活に入るための準備は、その前日に行われた。脱走は決していたしませんという誓約書に署名させられた。署名しながら考えたことは、日本本土から脱走することの可能性は絶無ではないかということだった。私の知っている限りでは、日本から脱走した捕虜は一人もいなかったはずである。
 捕虜たちにとって、それが強制されたものであれ造船所で働くことは、収容所に終日閉じ込められていることと比べると、はるかに気晴らしになったのであろう。
 ところで収容所・造船所側からみると、敵軍の多数の捕虜を軍需工場内で働かせるということはどのような問題であったのだろう。米軍の空襲が切迫しているなかで、捕虜たちの「スパイ活動」に神経をとがらせていたようだ。
 空襲情勢について著者は次のように記述している。

―土生へ着くとすぐに、収容所では明りを洩らすことを禁じられ、窓いっぱいに厚いシャッターが取り付けられたが、それが空襲に対する不断の用意だと聞かされると、いやでも私たちの志気はあがったものである。空襲に際しては、ベットぎわに腰を下ろし、別命あるまで待機せよとも言われている。

 「すでに緊迫化していた空襲に対する警戒態勢の説明会」に著者も出席した。そこで「焼夷弾が日本の木造家屋に落ちた場合の猛威」の説明があり、「もし火勢にして大なるばあいは、諸君も部屋を後にしうる」と指示をうけた。またラッパ手が、防空演習と実際の空襲、火災演習と実際の火災というように吹き分けてみせた。
 まもなく実際に空襲警報が鳴らされた。著者は、「本当の空襲警報は数日後の夜に鳴らされたが、残念ながら飛行機はこなかった」と、率直な心情を吐露している。
 「志気があがった」「残念ながら」とは、いかにも英軍捕虜将校らしい表現であるが、収容所と造船所のいずれもが空襲下の臨戦態勢に入っていたことを伺わせる。そして「スパイ事件」が発覚するのである。
 ひとつは、「日本の工員の一人が、捕虜が造船所で写真をとっている動かしがたい現場をみた」というもの。もうひとつは、「別の捕虜が一人、造船所でスケッチをしていたところを見つけられた」というものである。著者によれば、そのいずれも幻のスパイ事件であったという。しかし、収容所や造船所幹部たちは、捕虜全員をスパイだと疑いはじめた。
 戦争が激化するなかで、日本側と捕虜側の立場は正反対であった。たとえ囚われの身であろうが英軍捕虜たちが連合国側の勝利を願い、自分たちが収容されている因島への空爆を期待することは、当然であった。可能なら、捕虜の職場である軍需工場の軍事機密を味方に通報したかったであろう。
 逆に造船所側は、空爆からいかに造船所と船舶を守るための機密保護に必死だったはずだ。こうして因島のなかで日本軍と連合軍側との和解しがたい戦争が繰り返されていたのである。

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