ふたりの時代【45】青木昌彦名誉教授への返信

70年安保闘争と私(11)
 70年安保闘争について政治闘争を軸に記述してきたが、視点を変えて大学闘争という方向から見てみよう。ただし私は、大学闘争の指導にほとんどタッチしてないので、詳しくは語れない。


 1970年の日米安保改定という大きな政治課題を乗り切るうえで政府を悩ませるもう一つの大学・学生問題に、全共闘(全学共闘会議)による大学・学園闘争、世間で言う「大学紛争」があった。本来は国家の意向にそって運営されているはずのところが、「反政府・反権力の拠点」になってしまっては、政府もたまったものではない。
 70年安保闘争は、ベトナム・安保・沖縄をテーマにした政治闘争と、全国の大学を席巻した大学闘争が、互いに刺激し合いながら両輪になって形成されていった。規模と期間という面からみれば、やはり60年安保闘争を上回っていると言えよう。
 1965年1月、慶応義塾大学の全塾自治会は、授業料大幅値上げ(13万円から28万5千円)に反対して、初の全学ストライキを行った。つづいて1・2年生だけの日吉校舎は無期限ストライキに突入した。翌年1月、早稲田大学も学費値上げに反対して全学ストライキに突入。さらに第2学生会館の管理運営要求も加えて無期限ストに入った。同年末には明治大学でも学費値上げ反対の闘争が全学的に発展した。
 1967年1月、群馬県高崎市の高崎経済大学が、不正入学に反対して、バリケードストライキに入った。翌年一月、東京御茶ノ水にあった中央大学昼間部自治会が、全学ストに突入、学費値上げ白紙撤回を実現した。
 政府は大学闘争を政治・治安問題としてとらえ、露骨に介入を開始した。その契機になったのが、10万の学生数を誇った日本大学での学生の闘いだった。1968年9月30日、日大全共闘は、東京の両国講堂に3万人の学生を集め、大学側と大衆団交を行った。大学も学生の要求を全面的に認め、全理事退陣確認書に署名した。しかし翌日になって佐藤栄作首相は、「大衆団交は集団暴力であり、許せない」と学生を非難し、大学も自ら署名した確認書を破棄した。これ以降、大学問題は100%政治問題化した。
 当然、東大闘争への国家の介入は強まった。この動きに対抗して初めて東大全共闘と日大全共闘は共同して11月22日、東大安田講堂前に全国の学生2万人を集め、東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会を開いた。それは近づきつつある決戦に向けた準備としてあった。年が明けて1969年1月15日、東大全共闘は安田講堂などの封鎖を強化し、全国から集まった500の学生もそれぞれの建物に篭城した。決戦前日の17日の東大構内は騒然としており、オーバーコートを着て歩いていた私など、私服刑事と間違えられるほど緊張していた。
 1月18日の朝、警察の攻撃が始まった。8500人の警察機動隊が動員された。テレビ中継され、多くの国民が画面にくぎ付けになった。学生街である御茶ノ水には多くの学生が集まり、東大内の学生たちと合流しようと警備側と激しく衝突した。その付近一帯は解放区になった。その日、砦化された安田講堂は落城しなかった。翌19日の夕方まで持ちこたえた。
 攻防戦がおよそ35五時間もつづいたことは、国家にとって大誤算であった。すみやかに東大構内の学生を排除し、東大を正常化し、そのことで全国に頻発している大学闘争の沈静化をはかる狙いは、ことごとく崩れ去った。
 東大は開学史上初の入学試験中止を発表した。したがってその年の東大生は皆無である。また東大への国家の介入は沈静化とは逆に、大学闘争の全国化を作り出してしまった。西の雄、京都大学をはじめ全国の主要大学はストライキに突入した。むしろ大学闘争は本格的な高揚に向かったと言える。

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