ふたりの時代【29】青木昌彦名誉教授への返信

人生選択の広島大(1)
 1963年に入学した広島大学は、私の人生選択の場になった。職業の選択ではなく、もはや後戻りのできない、生き方の選択である。現在、主要な施設は東広島市にあるが、ここで問題になるのは、広島市東千田町に本部キャンパスがあった時代である。


 そもそも広島大学を志望したのは両親のすすめで、教師になるのはそこに行くしかないのかぐらいの気持ちであった。しかし、瀬戸内の島で育った18歳にとって、当時の広島大は生やさしいところではなかった。原爆の問題である。大通りをはさんで大学正門の斜向かいには日赤原爆病院があった。学生たちは、その付近を通って通学するのである。ラジオは、原爆被爆者がそこで亡くなるたびにそのことをニュースで報道するのだ。それは衝撃的で、とんでもない大学にきたとさえ思った。
 当時の私には、そのような現実に対処するすべなどあろうはずもなく、情ない学生生活を送るしかなかった。「自由の天地」として憧れた大学への幻想は、たちどころに消し飛んでしまった。1週間は選択した時間割通り、講義に出席したが、ほとんど高校時代と変わらない内容と雰囲気にすっかり失望し、英語とフランス語の語学の講義しか顔を見せなくなった。住んでいた学生寮に閉じこもることになるのである。
 サークル活動にも関心が持てなかった。時たま大学に行くと、学生運動の活動家が演説しているのに遭遇した。まったくいただけなかった。正門で演説していれば、裏門にまわり、裏門で演説していれば正門にまわるという具合に彼らを徹底して避けた。寮生にも心を開かなかった。
 学生同士の交流をほとんど断ち切り、自分の殻に閉じこもることに終始した。当然、精神的にも肉体的にもどん底で、1年の夏休暇は悲惨にも、帰省し、病院に通い静養するしかなかった。
 転機が訪れたのは入学2年目の春だった。当時、同じ学科で自治会のクラス委員をしていた人物から、役員交代を依頼されたのだ。1年間の自堕落な生活を、耽美的な作風で知られる永井荷風を気取り、正当化してみてもどうなるものでもなく、重い腰をあげ、評議員という役員を条件付きで受けることにした。
 評議員とは、自治会のクラス代表役員で、評議員のなかから執行委員会が選出され、自治会が運営される仕組みになっていた。しかし、学生運動をしないと決めていた私は、自治会の役員としてではなく、クラス活動の世話役として役割を限ろうとした。クラスといっても同じ学科ではあるが、語学の講義の時にしか集まらないバラバラな50人ぐらいの集団であった。少しでもまとまりを作ろうと、読書会や議論などをやった記憶がある。大学生なら自分たちで何かやろうよ、という素朴な試みであった。
 講義のあと学生が集まり議論をしたことがあった。その時、前の評議員が、「自治会についてみんな批判するが、学生一人ひとりが無関心だから自治会がだめになるんだ」と声を荒げて発言したことがあった。私も、なるほど、そうかもしれないな、とうなずいたりしていた。だけど私には他の学生を非難する気にはなれなかった。ともかくも、私の内面に大学生らしい気分がようやく芽生えてきたころであった。
 こうした私の動向は、私の思惑とは無関係に、60年安保闘争直後の沈滞したキャンパスなかでは目だったのかも知れない。学生運動の活動家からの接触が増えることになった。当時大学内にあった三つの潮流からである。そのなかのひとつに属し、同じ寮に住んでいたある同級生から頻繁に働きかけが始まった。寮外からも私を訪ねて活動家がやってくるようになった。知らず知らずのうちに私への包囲網は狭まっていった。さてどうするか、返事をしなければならない時が迫っていた。

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