父のアルバム【10】第二章 昭和を旅する

与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の全編をあえて読んでみたのは、父を意識したからである。

父は日露戦争に強い影響を受け、学生時代にその戦跡を訪れ感無量になった。私にとってその戦争は、どちらかと言えば他人事だった。その結果、与謝野晶子の詩によって日露戦争に近づくことになったのである。

父と息子の人生はほとんどが交わることなく、擦れ違いが繰り返された。日露戦争はその典型である。決して父はその戦争を息子に語って聞かせることはなかった。

私は父が校長の小学校を卒業した。当時、その学校は全校生徒が50人の複式学級であった。父を含めて3人の教師が3つの学級を受け持った。私の3年と4年の担任が父だった。

そのころの男性教師は時代を反映して軍隊帰りの者もいた。5・6年の担任は授業中に度々、満州の体験を児童に話した。満州ハルビン市はそのころ覚えたもので今でも忘れられない地名である。

ところで父と言えば、戦争など歴史に関わることを学校と家庭いずれにおいても口外することはなかった。その理由はある程度は想像できるが、本人がそれを明かしたことはない。

家庭でロシアについて熱心に教えたのは祖父だけだった。祖父は私の父母に気を使ってか、決まってふたりきりの場所でロシア人を露助(ろすけ)と非難した。「露助」とは日本人のなかで歴史的に形成されてきた蔑称である。

祖父は明治12年12月の生まれであるからまさしく日露戦争の時代を生きたのである。しかも、船の機関長を勤めあげたあと、農業に専念していたころであるから、公職にあった父とは異なり、社会的制約に捉われず、率直な想いを吐露できたのであろう。

父との人生上の行き違いには、私にも責任がある。私は幼少のころから家族に打ち解けないところがあった。それには原因があるのだが、それを克服しないまま自己形成を図って行った。

父母の生きた時代をともに語り合うことで共有し、それを発展的に継承して行くことができれば何と素晴らしいことかと痛感する。父の生前にはその営みに失敗した。しかし私は生きており、あらためてそのことに挑戦したいと思うばかりである。

父が向東小学校に勤務していた昭和10年ころの写真。左端が母、右が父。父の膝の上に長姉がいる。その右が長兄。

(青木忠)

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