因島空襲69周年にあたり三庄爆撃で死亡した仲宗根家6人を追悼する
掲載号 14年07月26日号
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大戦末期の昭和20年――3月19日と7月28日の2度にわたって因島は、米軍の空爆を受けた。軍人、徴用工、造船所従業員、船員、学徒動員生、住民、徴用された朝鮮半島出身者ら200人近い犠牲者が出た。
三庄町においては7月28日、日立造船三庄分工場とその周辺への爆撃によって17人とも言われる数の住民が犠牲になった。そうしたなかで、沖縄から学童疎開をしていた仲宗根家の母親と、10歳の姉ら5人の幼子の6人が即死した。
この悲しい事実は地元において、戦後ずっと語り継がれてきた。
当時、三庄国民学校高等科の学徒動員生で自宅に爆撃を受けた山内勝さんは、仲宗根一家について次のように語った。
「沖縄が危ないので大阪に疎開し、大阪が危なくなったので、お祖母さんを頼って因島にきた」と聞いた。
「三庄空襲の犠牲者の遺体は、弾薬の倉庫になっていた防空壕に集められ町の火葬場を先に行った砂浜で荼毘に付された」と聞いた。
当時、三庄国民学校4年生で仲宗根家の長女と同級だった山内法子さんは次のように回想した。
「沖縄から大阪に行き、大阪が大変だと言って因島に来て死んでかわいそう」と同級生同士で話していた。
仲宗根一家は、昭和19年10月10日の那覇大空襲前後に大阪に疎開し、20年13・14日の大阪大空襲の直後、お祖母さんの住む因島の三庄町にやってきたのではないか。
空襲から69年を迎える7月28日の三庄町に爆撃があった午前10時20分、現場において、初めての追悼行事が行われる。尾道市、市議会、関係者、住民らが集まり、祈りと言葉を捧げる。
(青木忠)