半世紀前、因島から浜松に届いた風船 足跡辿る調査開始
掲載号 14年04月12日号
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53年前の昭和36年(1961)11月3日の文化の日に田熊町子供会が田熊小学校と中学校グランドから上げた、手紙の付いた風船550個が大空高く舞い上がった。
それから一週間後の11月10日、ひとつの風船が11月10日、静岡と長野の県境の山地にある浜松市天竜区水窪(みさくぼ)町の山住神社に落下した。それを小松作平さんが発見し、地元の水窪小学校河内浦(こうちうれ)分校に届けた。それが縁で山の子と海の子の交流がはじまった。
因島ライオンズらが山と海との交流支援
さっそく因島市子供会育成連合会(大谷四郎会長)は、山の子供たちに因島への招待状送った。それを知った設立まもない因島ライオンズクラブ(中村茂会長)が全面的な支援に立ち上がった。
同クラブは旅費、衣服、カバンなどを寄贈。昭和37年7月28日、水窪小学校河内浦分校の児童18人、校長ら10人がが招かれて来因した。田熊桟橋に着き、浄土寺を宿舎に耕三寺、日立造船、地元小中学校などを訪ね、折古浜海水浴場で泳いだ。
「因島と浜松の交流会の思い出」 村上満寿美さんに聞く
昭和37年7月、因島田熊町浄土寺で行なわれた交流会に参加した村上(旧姓河合)満寿美さんに話を聞いた。
村上さんは当時、三庄小学校2年。風船の縁で浜松市の水窪小学校河内浦分校の児童と文通をつづけ、昭和37年に山の子供たちがやってきた時、宿舎の浄土寺での交流会に上級生とともに参加した。
村上さんはその思い出を次のように語った。
「当時、因島―尾道を、白に青のラインが入り、赤い翼のついた水中翼船が就航を始めたということで、その模型を水窪に送りました。その後、模型を川に浮かべ『満寿美丸』と名付けましたという写真が届き、とても嬉しくした思い出があります。その写真は、川をせき止めて、子供たちが船を取り囲んで浮かべているというものでした。記念誌出版を企画されているそうで、そのおりには一冊いただきたいと思っております」
桟橋で因島との別れを惜しむ水窪小学校河内浦分校の子どもたち
翌年8月17日、田熊・三庄の小中学生50人が水窪町に招待され、南アルプス連山の展望を満喫しながら川遊びを楽しんだ。10年後再び、山の子たちが因島にやってきて交流したという。
左には田熊小学校校旗がみえる。
風船が発見された山住神社のご神木である杉の大木を取り囲んで遊ぶ因島の子供たち
169枚の写真
昨年11月、この交流を撮影した169枚の古い写真が偶然にも、山住神社近くの臼井神社で発見された。
それは、世界遺産の熊野古道と並び称される秋葉街道(長野県上田市~静岡県浜松市)を調査研究している秋葉街道踏査研究会のメンバーによるものである。
メンバーはその写真を整理するなかで53年前の風船交流の足跡を辿ろうと因島行きを決定。
7日、研究会の6人が因島大浜町に到着し、民宿に一泊。当時、子供たちが訪ねた場所を写真に収めたり、縁の人たちと交流した。そこで地元住民との会話が始まり、本紙も総力取材に入った。写真展、記念誌出版を企画しているという。
53年前に風船を放った田熊小学校を訪問する秋葉街道踏査研究会メンバー6人
田熊小学校校長室にて
折古の浜にて