同志社女子大学元学長 岡野久二氏お別れの会

掲載号 14年01月25日号

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尾道市因島田熊町西区出身の同志社女子大学元学長岡野久二氏(京都府長岡京市天神)は昨年11月7日大動脈食道ろうのため京都市内の病院で死去。86歳。

告別式は9日親族で営まれ、お別れの会は1月11日午後2時から京都市上京区今出川通り寺町の同志社女子大学内「栄光館ファウラーチャペル」で同大校友会、同大ソフトテニス部OB・OG会、その他一般の方が参加して行なわれた。

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因島でも2月1日午後6時30分から土生町ナティーク城山で尾商、同大OB、一般友人が参加してお別れ会を開く。

岡野氏は田熊小―尾道商高―同志社大学文学部英文科卒後、新居浜西高教諭など経て同志社女子大教授―同学長など歴任。教育分野を始め同志社スポーツユニオン名誉顧問、京都創世塾々長として尽力。2007年教育研究功労瑞宝中綬章を受章。おしい人がまた一人天国に召された。

傍目八目

一面に同志社女子大元学長岡野久二さんのお別れの会について書いたが、もう少し回顧しておきたい。尾道商業卒後なぜ同志社大学文学部英文科へ進んだのかの質問に久二さんは「当時、尾商は県東部進学校のうちの一つだった」と、そっけない。

「下宿を見つけるまで…」と条件付で居候した京都寺町通りの耳鼻科医院の2階。京都は戦災を受けていなかったが、古本屋も十分でなかった。そのせいか、久二先輩の卒業論文は図書館が頼りだった。

図書館は共学と女子大の間で、その裏にアーモスト館と呼ばれる神学部の館があり、グラント教授とケリー教授も学生と一緒に生活していた。ある日のこと、久二さんがスクーターの故障をなおしていたケリーさんに「ボロだなあ」とひやかすと「言わぬが花ですよ」と切り返した。

外人がユーモアを交え日本語のことわざを引用して切り返してきたので二の句が告げなかったことは、いまでも忘れがたい思い出として残っている。

(村上幹郎)

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