空襲の子Ⅱ【47】十年間の調査報告 尾道と因島空襲(2)

掲載号 12年11月17日号

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 因島空襲調査のことが報道されるようになり、各方面から連絡をいただくようになった。そのなかに尾道市久保の方からいただいた葉書がある。それは、徴用工として日立造船因島工場に動員された体験を綴ったものである。「因島空襲の思い出」という題名がつけられ、宛名書きのところにまで文字が、びっしりと書き込まれていた。届いたのは2006年7月のことである。

―1944年1月、徴用令により、第9次応徴士として日立造船因島工場の現図場罫書工に配属された。応徴士といえば聞こえがよいが、みんな冷遇をうけた。9次応徴士のKさんは舎監助手に配属された。家族と家業を捨て、低賃金で、年少工員の指示下に不馴れな労働に従った。

 翌年3月19日、米空母から発進したグラマン戦闘機の空襲をうけた。私たちは横穴防空壕に避難。安全を確かめて外を窺った。急降下したグラマンの窓越しに、血色のよいパイロットの横顔が見えた。

 沖合いに碇泊中の白いドイツ武装船が対空砲で応戦したときく。工場には防備はなく、グラマンの独り舞台ではなかったか。空襲のあと、爆死した数多いボラが海面に浮上した。みんなでつかみ取って栄養を補った。

 機銃掃射をうけた現図場のスレート屋根と床板には、親指大の穴が、1メートル間隔であいていた。厳重な報道管制下、海軍監督官と憲兵が常駐していて、死傷者や物的損害などの情報一切が封印され隠蔽された。

 戦後、同町内に住む、8次応徴士のM君の被弾を知った。彼の歩行には障害があって痛々しかった。弟さんによると、来る10月に25回忌を迎えるという。何の補償を受けていないようだ。

 因みに捕鯨母船の軽空母化改装工事では、石綿工事に従い、石綿が皮膚にささった。しかし誰も気にもしなかった。

 翌4月、召集令状をうけて広島2部隊に入隊した。

 この葉書からうかがえるが、徴用工として因島に動員された尾道の人たちは相当いたようだ。当時、日立造船因島工場の徴用工は約1千人と言われている。

 ちょうど同じころ、因島での空襲体験にふれた書籍が二冊、私のところに寄せられた。尾道市栗原町の川上節夫さんの『涙の連絡船 わが半生の記』と向島町の藤井壯次さんの『詩集「ロムニー」の青春』である。

 川上さんは当時、重井国民学校高等科の生徒であったが、田熊町の占部造船に動員された。

―戦況はますます悪化し、ついに昭和一九年十月、私たちにも学徒動員の命令が下りました。十四歳の時で、配属先は隣町の占部造船でした。造船所で働くようになって、アメリカのグラマンによる機銃掃射を初めて体験しました。日立造船所に爆弾が落ちるところも、はっきり見たのです。

 自分たちもいつやられるか分からず、「今日が最後、今日が最後」と思いながら過ごしたものです。

 当時、日立造船所では、最後の航空母艦を建造中でした。その進水式を見に行くのに、隣の造船所の垣根を乗り越えて、無断で行きました。行きはよかったのですが、帰りに垣根を飛び越えたところで捕まり、守衛にこっぴどく叱られました。しかし、たまたまその人が因島出身だったので、同郷の誼で、「二度とするなよ。今度だけは勘弁してやるから」と言って許してもらえました。

 また、この学徒動員の時に、八八型輸送船の試運転に乗せてもらい、大砲の試射も見せてもらいました。

 川上節夫さんはその後、呉の海軍工廠に志願し、昭和24年4月から配属となった。そこで相次ぐ空襲を体験し、その凄まじさに度肝を抜かれたという。

(青木忠)

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