因島空襲67年目の出会い 被災者と爆撃跡を見学した市民
掲載号 12年06月02日号
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三庄空襲で被災した青木忠さん=写真左=が5月16日、爆撃跡を見学した田熊町在住の岡野正吉さん(87)=写真中=と初めて対面した。
青木忠さん(旧姓松本)は、昭和20年7月28日、三庄町神田の自宅が爆撃され倒壊した家屋の下から仮死状態で救出された。実父の松本隆雄さんは「ふるさと三庄」のなかで、「池のような穴が出来て家は跡かたもなく飛び散っておるのです」と記している。
岡野さんは昭和20年10月松本さんが勤務していた三庄小学校に新任教師として赴任。その直後、他の教師とともに案内されて松本家の爆撃跡を見学した。爆弾でできた穴の大きさに驚き大変な被害であったと思ったという。
その後も松本さんと親しくしていた岡野さんは、青木さんに「まるでお世話になってきた、あなたのお父さんに会っているようだ」と語りかけた。青木さんは「被災直後の実家と父のことが分かり、とてもうれしい」と感無量の様子。
日立造船の空襲 船舶炎上を目撃
岡野正吉さんの夫人である恭子さん(83)=写真右=は昭和20年7月28日空襲の時、土生高等女学校4年生。学徒動員で日立造船因島工場庶務課に配属されていた。
その日の空襲が始まるやナティーク城山下の防空壕に避難。出てくると目の前で「大きな船が燃えていたドックに一体の遺体が浮かんでいた」と話した。この船は日寅丸であると思われる。