空襲の子Ⅱ【22】十年間の調査報告 防空壕の今(2)

掲載号 12年05月12日号

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 防空壕の調査をしようと思うと必ず脳裏をよぎる事件がある。国会でも問題となったが、2005年4月9日、鹿児島市立武岡中学校の2年生男子生徒4人が防空壕内で死亡した。壕内でたき火をして一酸化炭素中毒にかかったという。

 たとえ空襲の実態を調べる目的であるにせよ、こうした痛ましい事故を引き起こす軽率さが、いささかもあってはならないと考えた。十分な配慮をしたうえで本格的な調査を始めた。

 2011年6月、尾道市担当係に趣旨を説明し、協力を要請した。行政は、当時、国の指示でつくられた防空壕の現状を把握し安全管理を行っている。快くその所在地を教えてくれた。同時に私たちが行う調査の結果を報告することを約束した。

 国の指示でつくられた壕は、尾道市内においては因島地域に極端に集中しており、23カ所もあった。内訳は土生町8、三庄町7、田熊町2、重井町6である。軍需工場地帯であった土生、三庄、田熊にあるのは予想どおりであったが、重井町に多いのが意外であった。やはり、当時、同町一帯に陸軍の燃料基地があったためであろう。

 調査活動は、まず、国がつくらせた防空壕の所在地と現状の確認に重点を置いた。

 田熊町 まず田熊小学校の校庭にあるものである。この壕ほど時代の変遷を感じさせるものはない。

 八幡神社側の壁面に掘られ、通学路の真下に位置している。戦後しばらくして陥没したと言われ、現在はコンクリートで完全にふさがれている。意識すれば気付くのだが、普段は何もなかったかのごとく体育の授業が行われ、放課後、児童たちがスポーツに励んでいる。

 戦時中、そこには国民学校と青年学校があり、通う児童や生徒がその壕に避難したという。したがって避難体験のある住民は今なお相当数にのぼると思われる。ところで、他の地域の学校はどうしたのだろうか。因島地域で学校敷地内にその跡が残っているのは、ここだけである。当時、学校さえも極めて危険な状態であったことを示す記念碑であると言えよう。

 もう1カ所は、軍需工場であった占部造船(元内海造船田熊工場)沿いの道路の山側にある。旧銅山跡を防空壕として活用したものである。入口は2カ所あり、木の格子戸とコンクリートで封鎖されている。

 調査の際に出会った複数の70歳代の女性は、質問に即座に答えてくれた。「銅山の採掘跡の坑道が防空壕だった」「空襲の時はミカンの木の下に逃げた」「子供のころ探検したり、涼みに壕に入った」などと語った。その世代の住民にとってここの壕は馴染み深い場所であったとみられ、造船所近くの住民が避難に使ったのであろう。

 国が指定した防空壕に加え、田熊町に民間が掘った防空壕四カ所を確認した。軍需工場をかかえたこの町は、当時ピリピリしていたに違いない。この造船所には誠之館、土生高女の学徒も動員されていた。警戒警報や空襲警報のサイレンの音を覚えている住民が多数いる。

 重井町 今回の防空壕調査において最大の収穫は、因島北部の軍事施設の存在を強く認識したことにある。このことを初めて知ったのは、2010年7月28日の「慰霊と証言の集い」における中庄町の浅田節子さんの発言を聞いた時であった。旧国民学校4年の時、集団下校中に米軍機から機銃掃射を受けたと語った。中庄町西浦地域に陸軍の施設があったという。

 重井町に調査に入って驚いた。ある世代から上の人たちが口をそろえて、海岸側に住民の土地を接収した陸軍の燃料基地があり、同町の住民が動員されてドラム缶を運んでいたと話した。

(青木忠)

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