空襲の子Ⅱ【17】十年間の調査報告 三庄町の真実(9)

掲載号 12年04月07日号

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 この連載で実母清子について3回にわたり書いた。では実父松本隆雄にとってその時代は、どのようなものであったのか。同じように「空襲の子」の立場から想いを馳せてみたい。

 「ふるさと三庄」(三庄老青会連合会)に掲載された実父の空襲体験談「昭和19年頃のこと」の全文を引用したい。故西島和夫さんから伺ったことであるが、彼が自ら体験した因島空襲を三庄小学校の児童たちに語り聞かせる際に、この文章を朗読したという。

―私は昭和11年頃から昭和21年まで三庄小学校に勤めていました。今思い起こしてみますと終戦前の状態は異常なものでした。教師は次々応召されるので元からいた人は六名位で、あと十名位はみなその代員だったのです。

 児童が登校したら先ず朝会で団体訓練から始まり、低学年は勉強ですが高学年は塩田作業に交代で行きます。この間出征兵士への慰問作文、慰問袋、避難訓練等、状況に合わせて色々な行事が行われました。

 私は高学年を担任しておりましたので学徒動員で日立造船三庄工場に出勤しました。日立造船は海軍の指定工場になっていたので駆逐艦とか舟艇等が接岸しておりました。私達の外に土生女学校の生徒、英軍の捕虜も一緒に働いておりました。作業は造船の手伝いで各職場に分れて作業の手伝いをするのです。工場の大人達は「生徒さんがくると励みになって仕事がはかどる」と言って喜んでもらいました。

 私達が工場にいた時アメリカ艦載機の襲撃をうけた事がありました。この時は全くあわててどこへ逃げたらよいのか、ただうろうろするばかりでした。いざ本番となるとあわてるので避難訓練はさいさいやる必要があると思いました。

 7月頃、この日は朝から艦載機の襲撃がありました。しばらくして空襲警報と同時にB29の爆音がきこえ十五機位で日立造船の土生、三庄が爆撃を受けました。私はこの時学校におりましたので南の方をみておりました。三庄工場の方で爆弾が炸裂する地ひびきが数回しました。飛行機が去った後現地を見にいきましたら七区の私の家附近に池のような穴が出来て家は跡かたもなく飛び散っておるのです。この附近の家も破壊されて大混乱でした。この時十数人の死者があったことを思い出します。

 この文章は、実父が78歳のころ語ったものである。艦載機を「B29」としているという明らかな事実認識の間違いは別にして、書かれている内容は、基本的に当時の状況を反映したものであろう。

 三庄工場に軍の艦船が入渠した様子を見ていたようだ。さらに3月19日にあった最初の空襲に工場内で襲われたことが伺える。「私達が工場にいた時……」の部分はそれに関する描写であろう。7月28日の空襲の際は学校にいたという。その日の我が家付近の惨状は、私の調査した結果と一致している。

 英軍の捕虜が三庄工場内で一緒に働いていたという記述があるが、意外な感じがした。私は英軍の捕虜たち全員が土生の因島工場で強制労働に就いていたと考えていた。三庄町にあった英軍捕虜収容所は三庄工場のすぐ近くに建てられていた。捕虜たちは、両方の工場に振り分けられていたのかもしれない。

 この空襲体験談は、実父が一時関わった「因島市史」の発行から16年経て掲載された。今改めて読んでみると、万感の想いが伝わってくる気がする。「ふるさと三庄」を私が読むことを想定していたのであろうか。Uターン後、実父の書架で見つけ、むさぼり読んだ記憶がある。

(青木忠)

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