空襲の子Ⅱ【1】十年間の調査報告 井伏鱒二に出会う(1)

掲載号 11年11月19日号

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 文豪と呼ばれる作家・井伏鱒二(1898~1993)が因島の三庄町に住んでいたことを知ったのは、いつごろのことだったろう。そのころすでに因島空襲の調査に没頭していた私は、彼が作品のなかで因島の空襲のことを書いていないか、漠然とした期待を持ち始めていた。

 それを知る機会は突然やってきた。昨年秋に地元の高校生が発表した課題研究論文が縁で、「因ノ島」(全集第11巻、自選全集第四巻)という作品を知った。昭和23年1月に「文藝春秋」に発表されたもので、敗戦直後の因島の三庄町と土生町を舞台にした短編である。

―船はその波止場の先をかすめて港にはひつて行き、戦争中の空襲で赤腹をみせてゐる廃船を迂回して桟橋に着いた。中田老人の村の桟橋と違って規模が大きく出来てゐる。この桟橋の附根のところに休業中の工場の建物が見え、その背後にも左右にも、ごちゃごちゃと家並みがつづいてゐた。土生(はぶ)という港町である。

 ところで因島空襲調査は、作家・井伏が目撃したであろう「空襲で赤腹をみせてゐた廃船」を突き止めていた。日本殉職船員顕彰会と「戦没した船と海員の資料館」、そして船舶の研究者から知らされていた。「日立造船80年史」にもその一部の写真が掲載されている。こうして私は、空襲調査が来年で十年を迎えようとしているときに、井伏鱒二と出会うことになった。

 昭和20年7月28日の空襲において少なくとも、四隻の船舶が撃沈され15人の船員が犠牲になった。大玄丸12名死亡、日寅丸3人死亡、光隆丸、SB艇(上陸用舟艇)である。

 「因ノ島」が発表された昭和23年1月とはどのような時期であったのか。連合軍占領支配の時代であり、すべての新聞や出版物はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の事前検閲の下に置かれていた。作家・井伏は、同じ場面を昭和35年5月、「鞆ノ津付近」で次のように描くのだが、表現の雰囲気が随分違って伝わってくる。

―その後この島(上島町弓削島のこと。筆者註)には終戦後、因ノ島に行ったついでに寄ってみた。姥目樫の生垣も栗石を嵌めこんだ土塀も残ってゐたが、商船学校のわきの松は大きな幹のものばかりが伐り倒されてゐた。因ノ島の土生の港には、米軍に撃たれて傾いた汽船が何隻かあった。戦前と戦後では島の気風もずいぶんかわったろう。

 「戦争中の空襲で」の表現が「米軍にうたれて」に置き換えられており、「傾いた汽船が何隻か」というように目撃した実像に近い描写がなされているように思える。
そのころの因島の状況はどうであったか。敗戦直後の9月15日、三庄町にあった因島捕虜収容所からイギリス兵ら連合軍捕虜が解放された。同時に捕虜収容所の虐待問題をめぐって戦犯裁判が行なわれ、全国的に死刑をはじめ次々と有罪判決が下り、刑の執行がなされた。

 昭和21年に日立造船因島工場が戦争被害国への賠償用の工場に指定され、工場の接収・解体という島存亡の危機が訪れた。昭和22年、因島のリーダーであった故巻幡敏夫氏が公職追放された。

 こうした息苦しい世相のもとで、どこかユーモラスな「因ノ島」という作品がよくも生まれたと思う。因島の医者に誘われて釣りにやってきた「私」が、警察の「闇取引船」捕捉作戦に巻き込まれる話である。「自選全集第四巻」の「覚え書」に井伏自身が次のように書いている。

―瀬戸内海で闇取引の船が横行を始めたのは戦後百日目くらゐのことで、博奕船が盛んになってゐた。そのころ私は因ノ島へ行って闇船と共に博奕打がつかまるところを見た。これは風俗史のつもりで書いた。

(青木忠)

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