碁打ち探訪今昔四方山話【5】因島が誇る囲碁の寵児 アマ本因坊村上文祥氏

掲載号 10年10月16日号

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村上文祥氏を知ったのは新制土生高等学校(現因島高校)に編入した時でした。県立土生高等女学校に男女共学の高等学校が併設されたことで島外へ出た中学生のほとんどが帰ってきました。尾中・尾商組、三原中・工業組、今治中学、広島組など、いったん進学して軍事教育、勤労動員にかり出されていた少年たち。原爆経験者もいたが何も語らず何もなかったように学生生活を取り戻して謳歌しようとしていました。

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授業をさぼって碁に興じていた木造旧校舎裏入口の宿直室右。

昭和23年秋のこと、先輩面(つら)をして一年生の文祥君に声をかけ裏門横にあった宿直室に連れ込んで碁を打つことになった。かなり強いと聞いていたので「なんぼう置こうか」と切り出した。

「すきなだけ置きない」と文祥君。後輩のくせに生意気なと思ったが負けるのがいやで井目(せいもく=九子)を置いて打ったところ、黒石を山のように取られ惨敗。以来、彼と碁の話はしないことにした。

その後、彼は早稲田大学に進学、囲碁部主将として活躍。荏原製作所に入社したことは風の便りで知っていた。

私は同志社大学を卒業後、産経新聞大阪本社から三重、島根を流転、浜田海上保安部の巡視船が李承晩ラインで日本漁船が韓国に拿捕されるのを警戒、「日本海に波高し」といわれソ連の潜水艦がうようよしていたころの話です。浜田の某旅館に「アマ本因坊村上文祥先生歓迎碁会」という立看板が目に入った。当時の浜田市長は俵三九郎といい、日本棋院アマ5段の打ち手で、石見(いわみ=島根県西部)国は碁聖本因坊道策の出身地でもあり碁の盛んなところでもありました。

こうしたことなどから浜田市のブタンガスをベースに因の島ガスが設置することになるのだから"縁"というものは異なものである。

(庚午一生)

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