因島にて… つかみかけた確信【36】

掲載号 10年08月21日号

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戦後65年―因島の夏(2)

 戦後65周年の因島空襲記念日の7月28日、私は自ら住んでいるこの地域で、つもりつもった想いをこめて「平和」を叫ぼうと思った。私は「平和」という言葉がいつの間にか嫌いになっていた。「慰霊」とか「追悼」という表現を好んだ。「平和」とは特別の日に、しかも特別の都市でしか使用してはならない、うすっぺらな標語に変質しているように見えた。

 空襲記念日を因島ピースデーと命名し、「よみがえれ因島」とつづけた。「平和」という言葉を、ひからびた、叫べば叫ぶほど空しくなるそれとしてではなく、みずみずしくて、誰でも使える、自らの心中を言い表すにふさわしいスローガンとして駆使してみたかった。そして、一見バラバラに見えたかも知れない、五つの行事と二つのの事業が出揃ったとき、「平和な社会 因島から世界へ」(毎日新聞)の流れが確かにはじまったのだ。

 しかし私の胸中は、今なお複雑だ。私の精神は、あの日へと引き戻されてしまう。1995年3月20日、オーム真理教による地下鉄サリン事件が発生し、12人の死者、3794人の重軽傷者がでたとされる。またその年の1月17日には阪神大震災が起きている。

 Uターンして5年目の私は、政治活動から引退し、地元の小さな土木建築会社で作業員として働いていたが、日本の国家情報機関の一つである公安調査庁の監視下にあった。私から情報提供を受けたかったらしいが、そのつもりはいささかもなかった。たとえ億単位の札束を積まれてでもある。

 その日私は、昼休憩の時間に眼鏡の修理か何かの用事で、普通の客として時計店に立ち寄った。ところが、いきなり店主の妻が、東京では今大変な事件が起きていて、と地下鉄サリン事件のあらましをがなりたてるのだ。あたかも私が首謀者であるがごとくの剣幕であった。どんなにお人好しでも、そこまで責任とれないよと、店を後にした。

 それから数日経ってであろうか、物知り顔をしたある会社の社長が「青木さんは爆弾をつくっていたんだって」と言い寄ってきた。その質問に興味をひかれた私は、ひと呼吸を入れて、「残念ですが、私がどんなに爆弾をつくりたくともできません。理系ではなく全くの文系ですもの。もっぱら私は演説です」と笑いながら答えた。

 この時期は生活の確立が最優先で、自分の意見を述べる余裕などなかった。自分独自の意見を表に出し、行動を開始するのは、それから五年後になるのであるが、地域の観察に関心があった。さらに私が地域の人たちからどのように見られているか、興味深く見守った。

 ふり返って見るに私の転機は、2002年の空襲記念日7月28日であった。守りから攻めに転ずることにしたのである。その年の7月24日の地元紙・中国新聞は、「『因島空襲』を後世に」、「28日演奏会 防空ごう前 協力訴え」と見出しをたてて、次の記事を掲載した。

 ―「因島空襲」の被害を詳しく知りたいと、同市椋浦町の瀬戸内シネマネットワーク代表青木忠さん(57)が、実態調査を計画している。28日に空襲のあった三庄町の防空ごう前でピアノ演奏会を開催。聴衆に調査への協力を呼び掛ける。

 ―青木さんの知人に、ピアノ調律師矢川光則さん(49)=広島市=がいる。戦前のピアノを使い、被爆者の鎮魂コンサートを開いた人だ。話をするうち、ピアノを島に運び演奏会を―と決まった。会場で情報提供を訴え、調査に弾みをつけようという考えだ。

 地元合唱団有志や演奏家からも協力の申し出があった。演奏会は28日午後2時に防空ごう前で開催。同2時半から、近くの特別養護老人ホームに会場を移す。

 私の原点を探し出す日が、ついに訪れたのだ。

(青木忠)

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