「橋本君輝昭に捧ぐ」司馬遼太郎の弔辞【1】

掲載号 10年06月12日号

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君とは寝台戦友の仲

 作家、司馬遼太郎と因島の故橋本輝昭との縁は、太平洋戦下のさなかの昭和18年(1943)学徒出陣によって奇しくも隣りあわせた戦友というめぐりあわせだった。司馬さんの本名は福田定一で大阪外国語学校。橋本さんは神戸高商。二人とも仮卒業で兵庫県加古川の戦車第十九連隊に入営した。翌19年4月満州に渡り四平の陸軍戦車学校に入り、同12月卒業後、見習士官として牡丹江の戦車第一連隊に赴任。対ソ用の戦車隊だったが、日本よりソ連戦車がはるかにすぐれ絶望的な思いで近代国家の「技術」の側面を考えるようになった、と司馬さんは回顧する。

 日本戦車隊は全戦線で全滅したため残り少なくなった戦車が本土の関東平野の防衛のため呼びもどされ、昭和20年(1945)5月相馬ヶ原から栃木県佐野に移り、ここで終戦を迎えている。

 敗戦後、福田さんは新聞記者に、橋本さんは会社経営に専念。福田さんは昭和31年33歳で産経新聞文化部次長となりペンネームを「史記」の司馬遷に遼(はる)かにおよばないという意味で司馬遼太郎と付け、処女作「ペルシャの幻術師」で第8回講談倶楽部賞を受賞。同35年1月「梟の城」で第42回直木賞を受賞。このときの祝賀パーティーで橋本組の社長、輝明さんは友人代表として祝辞を述べたと自慢していたものだ。

 それから20年。昭和55年4月、橋本社長の急死には司馬さん夫妻が来因、因島土生町の善行寺の葬儀で声をつまらせながら次のような弔辞が読みあげられたのを憶えている人も少なくなったことだろう。

 やがて司馬さんも亡くなり因島との縁が切れたかのようだったが、輝明さんの甥で因島ロータリークラブの会長だった橋本組柳沢ゆきひこ社長と司馬さんの義弟で司馬遼太郎記念館上村洋行館長との縁がこのほど復活した。そこで、橋本家に眠っていた司馬さん自筆のありし日の弔辞を解読してみた。(以下原文のまま)

 橋本君輝昭の在天の霊(みたま)を仰ぎ謹みて申さく

 君と相識りたるは三十七年の昔なりき、時にこの国は戦いの中にありたり、学び舎(や)に学ぶ者を兵士たらしめんとし、昭和十八年十二月。鉾(ほこ)を取り 技(わざ)を学ばしめらる。寒き日、兵庫県加古川の奥なる台上の地にて学制服を脱ぎ、それを家郷に送りたる日の想い出を君と予は共にす。

 さらに中国東北方四平街の丘稜上に送らる。ときに予は君と寝室を共にす、さらには八ヵ月にわたり、寝台を隣に接す。かの軍隊とは特殊なる社会に於てはこの間柄を寝台戦友とよび、格別に睦び、互ひに扶け合ふべきものとさる。

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