時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【45】本因坊元祖日海和尚(2)

掲載号 09年09月05日号

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 前述のように京都・日蓮宗寂光寺の僧、日海は後になって本因坊・算砂と呼ばれ、わが国初の本格的なプロ棋士の誕生となるわけです。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という3人七癖の戦国の権力者に仕え首も腹も切られずに仕えたのですから、よほど懐の深い人物だったのでしょう。

 信長は当時19歳の日海を折あるごとに呼び出して対局、その腕前を披露させたが本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた。日海と信長が初対局したわずか4年後の天正10年だった。疾風の如く戦国の世を駆け抜けた武将と天才碁打ちでしたが僧の方はこの後、秀吉―家康に仕えるという幸運な道を開いていきます。信長亡きあと、なんでもまねをしたがった秀吉は、囲碁もそうでした。

秀吉が初の囲碁全国大会

 天正16年(1588)のこと、秀吉は今風にいえば「囲碁全国大会」を開きました。秀吉が囲碁をいつだれに学んだかは、はっきりした資料が残っていません。しかし囲碁好きだったことはまちがいありません。とりわけ「仕切り屋」の秀吉らしい企画といえるでしょう。

 この大会は、天下人の威信にかけて、当代一流の碁打ちが全国からエントリーされました。そうしたなかで日海が参加して強豪を寄せつけず優勝。鼻高々だったのは日海よりも秀吉の方だったかもしれません。秀吉は日海に「朱印状」を与え「20石二十人扶持」を約束しました。このことが正式には権力者による職業囲碁家認知第一号といえるでしょう。いわゆるプロ棋士誕生というわけです。

 この大会で日海は全国ナンバーワンになり「名人」と認められるようになりました。そして京都・寂光寺の中の塔頭「本因坊」に住んでいたことから本因坊=(イコール)=名人という認識ができ上ったのでしょう。こうしたことが囲碁の専門家、プロ棋士を育てる道を開き扶持(米で与えた給料)を与えその地位を認めたのは秀吉が初めての試みで、そうした意味では秀吉の囲碁歴史文化に対する功績は大きいと思われます。

 本因坊・算砂(日海)は信長、秀吉、家康の三人とはいずれも五子の手合だったと書き残されています。しかし棋譜が残っているわけでないので確かな話ではありません。権力者の棋力をあからさまにするのはなにかとさしさわりがあったのでしょう。秀吉は死に際して「なにわのことも夢のまた夢」という辞世を残したが、京都・大徳寺と水戸・徳川博物館には秀吉と家康が碁を囲んだという碁盤が一つずつ現在も残っています。

(庚午一生)

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