時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【6】NHK大河ドラマ「篤姫」と囲碁(その六)

掲載号 08年07月19日号

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 安政元年12月18日(西暦1854)附、備後国鞆港(福山市)の中村吉兵衛にあてた秀策の手紙がある。

 十月十四日出の貴墨相届き辱じけなく拝見仕り侯。時下厳寒の節、御地貴家御揃いにて弥々御安全のこと賀し奉り侯、保命酒一樽御恵投毎々の御好意謝し奉り侯。師匠著し候新版碁経一部呈上仕り侯。十一月四日の大地震にて当地諸家御屋敷向も損し侯も数多御座候得共、芸州(広島・浅野家)、福山(阿部家)両侯の御屋敷は御無難にて御同慶に御座候。私宅(本因坊家)も無事、御安意におぼし召さる可く侯。東海、中仙、甲州道中、何れも大地震、中にも駿遠両国(静岡県)、別して駿の掛川府中などは、宿中残らずつぶれ家、御城も大損じ死人数多に御座候 其の外の駅にも何れも無難の駅はこれ無く、筆紙に申し候えは十分の一位のこと、驚歎この事に御座候。豆州(伊豆)下田は御聞及びの通り千軒余もこれ有る場処、地震、津波両様にて拾八軒残り、跡は皆押しながし申し侯。死人千人余、諸役人も丸はだか、異国船も大損じ、異国船は同月二十八日戸田浦と申す処え乗出し、船普請相願い候処、大風に逢い、船しづみ申し侯。異国船の人数損じはこれ無く、この節沼津浜辺え上り居り候由、さてさて不びんなることと、諸人噂致し候事に御座候。

 この手紙は備後国(福山市鞆町)の保命酒本舗、中村吉兵衛に送ったものである。朝鮮通信使が立ち寄り風光明媚な瀬戸内海に浮ぶ鞆の津の仙酔島に酔いしれた古くからの港町。名産保命酒は芳醇甘味の養命酒として有名で中村家はその醸造元である。東海一円を襲った大地震については既に触れているのでさけるとして、中村吉兵衛に呈上した「師匠著し候新版基経」は秀策の義父、十四世本因坊秀和著「棋(碁)醇」二巻を差す。嘉永7年秋の新刻で、秀和の碁が初めて世に公表されたものとなっている。

 あけて安政2年秋も深まった10月2日、江戸・薩摩藩邸。西郷隆盛が奔走してそろえた篤姫の輿入れの用意も調った。その夜のことである。突然、激しい揺れと轟音。篤姫たちが廊下を走り庭に出た直後、部屋の天井が崩れ落ちるシーンがNHK大河ドラマで放映された。江戸を中心に襲った安政の大地震である。江戸城の石垣が崩壊するほどの激しい地震は、1万人とも言われる命が瓦礫に埋まり炎に飲み込まれた。

 年明け早々に予定されていた篤姫の輿入れは、いつになるかわからなくなった。恒例の御城碁も中止されている。

 同年10月9日には福山藩主で老中首座だった阿部正弘は一連の騒動の責任を取って職を退き、下総(千葉県)佐倉藩主堀田正睦(まさよし)を後任にすべく将軍家定に引合わせた。

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