空襲の子【65】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 初の因島市長選(中)

因島市誕生の時期は国政・市長・市議と選挙が連続した。4月29日衆議院選挙をかわきりに5月17日因島市長選、5月20日市議選とつづいた。いずれも激しい選挙戦になった。衆議院選は吉田茂首相の「バカヤロー解散」を受けたものであり、市長・市議選は新市の舵取りを決めるものであった。

選挙直後、因島市選挙管理委員会事務局は、一件の違反事件の検挙もなかったとしたうえで、「然し中には号泣哀訴、誠に憐憫の情をもよおすようなはげしい連呼、所かまわず張りめぐらしたポスター等々、選挙良識を疑わすような事例も散見したやうに聞く」と総括している。

市長選の3陣営について見てみよう。保守系が擁立した巻幡敏夫陣営は、土生町を中心に因島全域に広がる候補者の人望と義弟巻幡進県議の支援に依拠した。だがそれは、「県議も市長も巻幡家に独占させていいのか」という攻撃材料にもされた。候補者本人は、有権者にたいして「お願いします」と深々と頭を下げる運動を好まなかった。

対照的であったのは日立造船が企業ぐるみで擁立した安松延二陣営であった。

同社は市長とともに市議選に6人の推薦候補をたて、内海清ら5人の社員を当選させた。資金も潤沢で3候補のうち選挙運動費も最多であったと、記録に残っている。

この企業ぐるみ選挙の中心を担ったのは日立労組であった。この力は大きく因島から初の衆議院議員を出すまでになった。市長選からの2年後の昭和30年2月、同社総務部長の内海清を衆議院広島3区に日本社会党公認で擁立、落選したものの3万6084票を獲得した。同33年には7万242票の2位で初当選をはたした。

その後内海清衆議院議員は、民社党として昭和35、38、42、44、47、51年と連続当選する。さらに県会議員選挙では昭和年、中山一郎を推薦し、自民党の巻幡進を破って当選させた。昭和43年には労組委員長の山口安夫を初当選させた。その後山口県議は昭和46、50、54、58年と連続当選であった。

こうした力の源泉は「企業城下町としての因島」で、「日立であらざれば人でなし」とまで言われた次期があった。とりわけ工場が広がる土生町と三庄町には、多くの社宅や寮がつくられ、地域の指導層も日立造船社員によって形成されていた。例えばPTAの役員全員が同社社員であったとも言われている。市は策もなく企業に依存していたのである。市の施設にも日立造船の社章があふれていた。例えば中学校のグラウンドにある野球のバックネットにも大きな社章が設置されていた。

第三の候補者である宮地弘は、「漁夫の利」の位置にあった。巻幡と安松が、因島南部の土生町と三庄町をめぐってあらそっているあいだに、因島北部を中心に票を固める作戦をとった。他方この宮地の動向については、安松陣営と連携した巻幡落としであるという憶測もとんだ。

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