空襲の子【39】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 九死に一生得た巻幡展男さん 上

掲載号 07年06月09日号

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 今年の2月下旬のことであった。家内が電話口でやり取りをしているのが聞こえた。どうも相手の方がお名前をおっしゃらなかったようで、「それでは困りますから教えてください」とくり返している。「土生の巻幡です」とのご返事をようやくいただき、わたしに受話器を渡した。どこの巻幡さんだろうと一瞬思ったが、声を聞いて電話の主はすぐに分った。巻幡恵美子さんだった。

 因島信用組合の創立者であり、初代理事長・巻幡敏夫さんの二女で、関西テレビ放送・名誉顧問である巻幡展男さんの姉にあたる方である。この連載で書いた故宮地茂さんについての文を読み、懐かしさがこみ上げ電話したが、「何度かけてもお留守でした。この電話がつながらなかったら縁がなかったものとお終いにしようと思いました」と言われた。すぐにご自宅をお訪ねした。

 会話がはずむなかで、1997・月刊「経営者」11月号に掲載された、「旧制・広島一中の思い出と放送界の将来を考える」という、巻幡展男関西テレビ放送社長=写真=と吉川英司テレビ新広島社長の対談を見せてもらった。

巻幡展男関西テレビ放送社長

 広島一中とは現在の県立国泰寺高校である。当時の因島の小学生では、学力優秀者の進学先は普通、誠之館、尾中、尾商であった。広島一中は特別に難しい学校であり、東京帝大より難関であった陸軍士官学校や海軍兵学校の予備校であるとも思われていた。

 一中の白いゲートルは何とも格好良く、広島市内の小学生にとって憧れの的であった。巻幡少年は、海兵に行きたくて仕方なく、親の猛反対を押し切ってとにかく願書を出したが、それが8月4日になり、原爆投下によってすべてが夢に終わった。

 巻幡さんの学年は、戦火の激しくなった3年生から勤労動員にかりだされた。授業はなく毎日のように工場に行き、兵器を作る日々を送った。江波にあった旭兵器の工場で大砲の玉を作っていた。原爆が落ちた日の朝も、そこで働いていたことが幸いし、負傷したものの命拾いをした。まさに九死に一生を得たのだ。一年生はまだ勤労動員に行かないで、校庭でラジオ体操をしていて、全員が犠牲になった。

 実家のある因島土生町では、「新型爆弾が落ち広島は全滅したらしい」という噂が広まった。家族は当然にも絶望的と思った。そんなこととは知らずに巻幡さんは、とにかく因島に戻ろうと思い、3日がかりで因島に帰った。

 原爆投下の翌日の7日はなにをしたかよく覚えていないと語る巻幡さん。おそらく下級生の遺体を葬っていたのだろうと、言う。原爆で市内や近郊の列車は不通。呉近くまで歩いた。呉も廃墟と化していた。やっとのことで列車に乗り、尾道駅に着いた。尾道で一夜を明かしていたら、空襲に見舞われて福山城天守閣が炎上するのを見ることになった。上空が真っ赤に染まっていくのをずっと見ていた。駅で因島から広島に出動する救援部隊とも会った。

 翌日の9日、フェリーで因島に向かった。やっとの思いで土生町の実家にたどりつき、包帯姿のまま「只今、帰ったぞ」と玄関を開けた。家族全員が驚いたのは言うまでもない。まるで幽霊扱いだった。祖母は仏前に座り、拝み始めた。ようやく落ち着きを取り戻し「展男、お前は本当に生きとるんか」と言って、足元をマジマジと見つめた。その直後、原爆病の症状が現れ、巻幡少年は生死の境をさ迷うことになる。しかもまだ戦争は終っていない。灯火管制下での困難な看護がはじまった。

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