中天に銅鏡となり陽がありぬ黄砂降り来る一日長

掲載号 07年06月02日号

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松本 悦郎

 五月ともなれば、晴れた日には燦々と陽が輝いていて、空に向って深呼吸がしたくなるのである。

 今日は朝から曇っているのでもないのに、何かどんよりとして、薄汚れた眼鏡越しに見ているような風景である。いつもよりも黄砂の降り具合が多いようだ。並段であれば眩しくて見ておれないような太陽も輪郭がぎらぎらしてなくて、古代に造られた銅鏡のような色に見えて、ぼんやりと中天に浮かんでいる。

 霧靄霞は立つとか湧くとか言われているが、黄砂の場合は「降り来る」である。特に最近の黄砂は濃度が昔とは違って来たことは確かである。対岸の島も半分ほどしか見えず。友人が言っていたが、

「わしは目を擦(こす)って見たわ…」

「年ごとにひどおーなる」

 誰もが同じ思いでこの黄砂現象を得体(えたい)の知れないものに、特に日本人はもろにこの黄砂の汚れを身に受けている。

 ずっと以前には、歳時記に春の季語の一つとして記載されており、春の霞や秋の霧のように季節を言い表す季語として馴染んで来ていた。三月から四月にかけて蒙古から偏西風に乗って来る年二、三回であった。

 最近では黄砂の濃度が違うようだ、洗濯物は黄砂の少ない日に干せ、マスクをせよ、嗽(うが)いをする。中国の蒙古地区に限らず、中国の急速な都市化、工業化による産業廃棄物、ダイオキシンなどによる不安要素を一杯に含んだ、光化学スモッグによる一番の被害国である。県内ではこの注意報が延べ十回発令されており、小中学校の運動会の開催の日延べ中止もあったと言われている。

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