空襲の子【27】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 尾商同期の想い

掲載号 07年03月10日号

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 3月7日の夕刻、故阿部正さんの墓に参ることができた。尾道市因島土生町にある臨済宗・対潮院の小高い丘のほぼ頂上にそれはあった。阿部さんがそこに永眠されているのを知ったのは昨年7月のことだった。墓碑には、

正岳良俊居士 長男 正
昭和廿年七月廿九日 十六才

と記されていた。やはり昭和20年7月28日、空襲で重傷を負い、翌日の29日に亡くなったのだ。

 昨年7月中旬、尾道商業高校の校長室で、阿部さんと同期の尾商第47・48期同期会の方たちとお会いすることができた。そしてその際、喜寿の会で発行した「同期の思い出」と題する小冊子の複写したものを譲っていただいた。そのなかで世話人代表の花本功さんは次のように記している。

―この世に生をうけて70有余年、もう第一線を引いた人がほとんどと思いますが、今までの人生が走馬灯の如く頭に残る今日このごろですが、その走馬灯がフーッと止まる時があるのです。

 それは昭和19年春過ぎ尾商時代、学徒動員で日立造船因島工場に引っ張り出され、協和寮で他の学校の連中と暮らした一年有余の思い出です。栗原先生の云う、飢えつつ、餓えつつ、死なん程度の食事で一日中腹ペコ、そして蚤・虱と戦いながら、グラマンの空襲に何度も会い友人一人を亡くし、沢山の工員さんが死んだまさに戦場そのものでした。戦中・戦後を通じて今の日本の基礎を作ったのは我々の時代の者だといっても過言では有りません。同士諸君、長生きしましょう、でないと割の合わない話です。

 さらに多くの同期生の思い出が記されている。そのなかに因島三庄町出身の宮地弥一さんのものがある。

―半世紀を過ぎた時の流れはやはりあらゆる記憶を茫々の彼方へ押し流しているが、忘却できぬ学徒動員、日立造船因島工場での1年有余、終戦直前爆死した学友阿部正平成6年50回忌法要有志50名読経香華せり・・・1年に1度必ず墓参して煙草を供えております。

 小冊子には協和寮部屋割の名簿が掲載されていて、物故者には印が付されている。平成17年5月25日の段階で、同期生の約3分の1が故人になっているという。常盤正和さんは、同期生は過去回忌に法要を営み、阿部正さんとともに故人の冥福を祈ってきたと説明してくれた。そして常盤さんは、阿部さんの追悼文を「尾商創立九十周年史要」に掲載する際に、題を「阿部正君の戦死」としたかったと話してくれた。結局、「死」という言葉に落ち着いた。その想いが、今のわたしには理解できた。阿部さんは戦争のために動員されたのであり、その最中に敵の攻撃を受けて死んだのだ。

 造船所は軍需工場であったという理由だけで米軍の激しい空襲を受けたわけではない。貨物船などの一般船舶を造り修繕すること自体が攻撃対象になった。米軍は日本の兵站部門を徹底的にたたき戦闘能力を不能にすることを狙った。日本は昭和18年には、約90%の輸送船を失い、兵站を絶たれ、戦線で餓死する兵士が続出した。その窮地からの脱出をめざし、造船業の強化をはかった。そのために昭和19年、学徒動員令により中学生たちは、造船所で働くことになったのだ。


故 阿部正さんの墓

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