われの住むこの道筋を尋ねしか、「林芙美子」の初恋なりき

掲載号 06年10月07日号

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村上 艶子

 平成14年に刊行された自歌集「砂浜」に収録されてある一首である。住所は因島田熊町である。歌の意味は放浪の人「林芙美子」さんが初恋の人を尋ねて因島に来た日も、この私の住んでいる家の前を通られたことだろう、と「放浪記」の一節に思いを馳せている

 芙美子の初恋の人は、田熊町には珍しくない、岡野某(なにがし)との姓であった。田熊町の郵便局の前を北への小道がある。当時は荷車のやっと通れる道であったにちがいない。初恋の人を尋ねてはじめて因島に来たときは、逢うこともなく帰ったと聞く。大正13年の5月には、大阪鉄工所と呼ばれていた。日本全国が労働争議に揺れ動いていたときであって、林芙美子が来た日は丁度ゼネストに突入しており、工場の正門前には多くの労働者があふれていた。芙美子はこのときに昼弁当まで用意して彼氏を待ったが、とうとう逢うことなく海に弁当を投げ捨てて帰ったと言う話を聞いた。

 いま手許に「広島ええじゃん紀行」という随筆集がある。池波正太郎・大林宣彦・林芙美子ら14名が名を連ねていた林芙美子は『田舎がえり(抄)』であって、7ページほどの小文である。

 尾道の駅には昼すぎに着いた(中略)、昔、わたしはこの町で随分貧しい暮らしをしていた。翌日は早く起きて因島行きの船へ乗った。造船所には「あさなぎ」「ゆうなぎ」という銀灰色の軍艦が修理に入っていた。(後略)

 ということから推測すると昭和14年頃である。芙美子が恋人を尋ねて初めて因島に来てから15年経っており、すでに小説家として名をなしていた。

(池田友幸)

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